未来を創るニッポンの底力
株式会社せんきん
十一代目蔵元/専務取締役
薄井一樹
写真/芹澤裕介 文/松本 理惠子 | 2018.04.27
株式会社せんきん 十一代目蔵元/専務取締役 薄井一樹(うすい かずき)
1980年生まれ。大学を中退し、日本ソムリエスクールに入学。卒業後は同校で講師を務める。04年、経営再建のために実家の「仙禽酒造」に入社。甘酸っぱい味の日本酒を開発し、人気を博す。08年、新会社の株式会社せんきんの専務取締役に就任。
■株式会社せんきん
1806年(文化3年)創業の蔵元。所在地は栃木県さくら市馬場。かつては仙禽酒造という社名で、大量生産の普通酒「仙禽」を販売していた。2008年、株式会社せんきんへ事業移管。現在は、11代目蔵元の薄井一樹氏を中心に、伝統的製法やドメーヌ米などのこわだりの日本酒を販売している。主力銘柄は「モダン仙禽」「クラシック仙禽」「仙禽ナチュール」「プレミアム仙禽」などのシリーズ。
薄井一樹氏は、1980年、栃木県さくら市(旧氏家町)で1806年から続く蔵元の長男として生まれた。父親は10代目当主であり、順当にいけば薄井氏が11代目にあたる。
「跡継ぎとしての周囲の期待は、子どもの頃から何となく感じていました。自身でも〈将来は家業を継ぐのかな〉と、漠然と考えていたと思います」と薄井氏。ところが、実際に彼が選んだ進路はワインのソムリエだった。
「1995年、私が高校生のときに、ワインソムリエの田崎信也氏が日本人初の世界チャンピオンになりました。テレビでワインを鮮やかにテイスティングしたり、スマートに客にサーブしたりする姿を見て、〈カッコいい!〉〈自分もああなりたい〉と憧れを抱きました。昔から美容師など、オシャレな職業に惹かれるところがありました(笑)」(薄井氏、以下「」内は薄井氏の発言)
高校卒業後は大学の経営学部に進むものの、本気になれず中退。そして、田崎氏が主宰する日本ソムリエスクールに入学するため上京する。「両親は特に反対はしませんでした。いつか気が済んだら戻ってくるだろうと思っていたのかもしれません」と薄井氏は当時を振り返る。
「スクールではワインの知識だけでなく、あらゆるアルコール飲料について勉強しました。それぞれの酒の特徴から造り方、産地、銘柄、その国の風土、料理や葉巻などの嗜好品との相性まで。もちろん日本酒も。
いくつか有名どころの日本酒も飲んでみましたが、あまりピンと来ませんでした。その頃の私にとって日本酒といえば実家の『仙禽』で、〈日本酒ってこんなもの〉という思い込みが強かったのです」
ところが、その認識を一変する出来事が起こる。スクールを卒業して、講師として教壇に立っていた2002年のことだ。
「ソムリエの先輩に〈お前の実家の酒を送ってもらえ〉と言われ、『仙禽』を持って行きました。都内の名のある天ぷら屋に連れられて行くと、先輩が店主に〈こいつの家は造り酒屋なんです。利き酒してやってください〉と言うのです。私が『仙禽』を差し出すと、店主は黙って利き酒して、首を傾げました。そして、福島の銘酒『飛露喜』(廣木酒造本店)を私の前に出してくれたのです。
ひとくち飲んで、〈こんなに旨い日本酒があるのか!〉と衝撃を受けました。実家の酒は大量生産、薄利多売の酒です。それに対して、目の前の酒は全然別物でした。それと同時に、〈プライドの無い酒を造っていても、うちに未来は無い〉と気づきました」
その後の薄井氏の行動は早かった。翌年、実家へ戻り、経営立て直しに取りかかる。だが、実家の経営は予想していた以上に悪かった。数字に強くない薄井氏が帳簿を一目見て「危ない」とわかるほどに、ギリギリの状態だった。
だが、悲観していても事態は好転しない。とにかくこれまでの「仙禽」のイメージを払拭せねばならない。経営立て直しの秘策として薄井氏が考えたのが、冒頭でも触れた“甘酸っぱい日本酒”だ。
「当時は『仙禽』だけでなく、どの日本酒も似たり寄ったり。“おやじの飲む酒”“悪酔いする”というイメージでした。そこで、〈せっかくなら今までにない日本酒を造って、一花咲かせてやろう〉と思ったのです」
安かろう、まずかろうの大量生産酒のイメージをひっくり返すためには、まずは飲み手に振り向いてもらわなくてはならない。そのために必要だったのが、「ただおいしいだけでなく、インパクトのある味」だった。飲み手をハッとさせるような、驚きと発見のある味――。
酒造り自体はまったくの素人だった薄井氏だが、明確に“この味”というイメージだけは出来ていた。それは、ソムリエ時代に学んだ知識から得た勘によるところが大きいという。
「今の日本の食卓には、肉料理もあれば、中華もイタリアンも並びます。それなら甘酸っぱい味がベストだと直感しました」と薄井氏。
初めての酒造りは、薄井氏が「こんな酒にしたい」という設計図を書き、先代から働く従業員数名がそれを再現した。
「日本酒の製造技術そのものは、造り方の方程式があるので誰でもある程度のレベルのものができます。それよりも、どんな酒を、どんな方法で造るかの“理念”や“設計図”が大事です。“売れる酒”を設計しなければ、商売にはなりませんから。レシピが30年前のでは、時代に合わないので売れないのは当然です」
だが、薄井氏が目指す“甘酸っぱい酒”は、日本酒業界ではタブーとされていた。なぜなら、日本酒のセオリーでは、“酸味は健全でない酒造り”だからだ。しかも、まだまだ端麗辛口が主流だった当時、「甘口は売れない」と思われていた。
「従業員たちも、〈こんな酒を造って、私たちは知りませんよ〉と言いながら付き合ってくれました。あまりに常識外れの酸度なので、〈あいつのところの酸度計は壊れている〉と同業者に嘲笑されたこともあります」
苦戦するだろうと覚悟していた初めての酒造りだったが、蓋を開けてみれば幸運にも、ほぼ失敗なく一発で狙い通りの味が出せた。歓喜する薄井氏を横に、先代は「売れるはずない」と冷ややかな反応だったという。だが、いざ市場に出してみたところ、これが若い女性に大ヒット。「仙禽」は一躍人気ブランドに駆け上がった。
「タブーに挑戦できたのは、私が日本酒造りの素人だったからだと思います。蔵元の跡取りはみんな東京農大の醸造学科へ進みますが、私は行っていませんし、教科書も読んでいません。業界の常識や先入観が無かったことで、新しい価値観の酒を生み出せました」
「仙禽」人気を見た他社が今、こぞって酸味を利かせた日本酒を売り始めている。もはや“おやじの飲む酒”ではなく、購買層の中心である20~40代の女性にとって、日本酒はオシャレなイメージの飲み物として認識されるようになった。
「10年前に『仙禽』の味に惚れてくれたファンが、今でもファンで居続けてくれます。また、新たなファンも増え続けている。それが、私がやって来たことの答えだと思っています」
vol.56
DXに本気 カギは共創と人材育成
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
代表取締役社長
井上裕美