スーパーCEO列伝
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
代表取締役社長
井上裕美
文/竹田 明(ユータック) 写真/中田 浩資(インタビューほか)、宮下 潤 | 2022.04.11
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社 代表取締役社長 井上裕美(いのうえ ひろみ)
2003年、慶應義塾大学理工学部物理情報工学科卒。同年、日本アイ・ビー・エム入社。システムエンジニアとして官公庁のシステム開発を担当後、さまざまな案件でプロジェクトマネジャーを務める。2019年より、ガバメント・デリバリー・リーダー。2020年より、日本アイ・ビー・エム グローバル・ビジネス・サービシーズのガバメント・インダストリー理事。2020年7月、日本アイ・ビー・エムデジタルサービスの設立に伴い、代表取締役社長に就任。2022年4月、日本アイ・ビー・エムの取締役就任。
デジタルテクノロジーを活用して、企業が新しいビジネスを生み出したり、消費者の生活を向上させたりする変革を指す言葉「DX(デジタルトランスフォーメーション)」。AI(人工知能)、IoT、ビッグデータ、クラウド、センシング、ロボティクス、XR(クロスリアリティ)など、デジタルテクノロジーの進化は目まぐるしいスピードで世界を変え、日本もその波に乗るべく数年前からDXを推進している。
日本のビジネス界にDXの概念が広まったのは、経済産業省が2018年に発表した「DXレポート」が始まりだ。レポートは「2025年の崖」という言葉でDX推進の必要性を発信。デジタル時代に取り組むべき課題として、企業はDXへ向けて重い腰を上げた。
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス(IJDS)は、システム開発からアウトソーシングまで企業の情報システムの構築を幅広く手掛け、統合の狙いに企業のデジタル変革の推進を挙げる。同社の井上裕美社長は、2018年当時の状況を次のように語る。
「日本の社会を支える基幹システムの多くは、それぞれの事業部門ごとに構築され、顧客視点でのカスタマイズが行われシステムがブラックボックスで複雑に作られていることから、この状態のままでは横断的なデータ活用を行うことが難しい状況です。COBOL等のプログラミング言語がわかるエンジニアの多くがより高齢化し、第一線でシステムを守ってきた人財が大きく不足することも懸念されています。それが経産省が警鐘を鳴らす『2025年の崖』問題です。このようなシステムを持っている企業は、それを知ってDXに向けて動きだしました」(井上裕美社長、以下同じ)
しかし当時、日本のビジネス界や官公庁は“アナログ”な作業がまだまだ残っており、紙の書類とはんこで仕事をしている人は相当数いた。そのため経産省が警鐘を鳴らしても、日本のデジタル化は遅々として進まなかった。
そこに、コロナ禍が襲い掛かった。2020年から始まったパンデミックで企業はリモートワークを余儀なくされ、それに合わせる形で仕事もアナログをデジタルに変えるというデジタル化にシフトされていった。紙の書類はデジタル化され、コミュニケーションはチャットツールやオンライン会議で実施。結果的に、コロナ禍によって日本企業はデジタル化を加速させることとなった。
「コロナ禍で日本企業のデジタル化は一気に進みました。そして、半強制的にデジタル化したことで、企業が抱えていたデジタルアレルギーが緩和されました。それまでは絶対に無理だと思っていたリモートワークが実現できたことで、デジタル化への“懸念”が“期待”へと変わった企業も少なくないと感じています」
ただ、ペーパーレス・ウェブ会議・オンライン商談などのデジタル化が進んだとはいえ、それらはアナログ情報がデジタルに変わったデジタイゼーション(Digitization)であり、それだけではDXとはならない。デジタルテクノロジーを活用して新しい価値を生み出すようなイノベーションを起こすことこそ本来のDXなのだから。
「デジタイゼーションが進んだことはDXの過程においては大きな意味があります。ようやくデジタル化が進んだ日本ですが、さらにDXを推進するには“やってみよう精神”が必要です。グローバルな組織風土はチャレンジに際して、成功したときのことを重んじるように見えますが、日本ではまだまだ失敗したときのことを先に考えるために身動きがとりづらくなるケースが多いと見受けられます。これがダメなら次はこれと、アジャイル(俊敏)に繰り返し失敗から学ぶことも、DXを進めるコツです」
リモートワークの体制作りや異業種間のデータを連動させることで、日本の企業も少しずつ成功体験を積むことができている。その流れに乗り、引き続き“やってみよう精神”でよりドラスティックなDXにチャレンジしたいところだ。
IJDSの統合前の3社は、それぞれ金融業と製造業など専門化した関連会社であり、業界特有の業務知識やシステム開発・運用に関する知見やスキル、アセットなどを蓄積してきた。統合は、業界の枠を越えることによる爆発的イノベーションを起こすのが狙いだという。長年、同じ業界でシステム構築を手掛けてきたことで、その業界の中での強みが生まれていたが、組織編成を通じて、業界特有の強みを業際横断に共有し合うことで新たな変革をもたらそうとしている。
「同質の人たちが集まって考えても、従来の考え方を超えて何かを生み出すのは難しいものです。けれども、DXを進めるにはいろいろな視点が必要。そこで、日本IBMは『統合』という道を選びました。DXという大きな変革を進めるにあたって、まずは自分たちが変わり続ける。実際、システム開発や運用に関する関連会社3つを一つにまとめたことで、たくさんの気づきがあって、皆、自分の常識が業界内に限定されていたことを改めて知りました」
部門横断的なシステム開発・構築・運用の分野はSI(システムインテグレーション)と呼ばれ、日本のSI業界は顧客のニーズに適したテーラーメイドのシステム開発を得意としてきた。要件定義から始まり設計、開発、テスト、運用・保守まで、どのフェーズも顧客の要件に合うようにカスタマイズを行い、丁寧に作り上げられるウォーターフォール型の開発のおかげで、システムは安定稼働しそれぞれの企業の業務にマッチしている。
一方で、常に要件を提供する側と構築する側の構造であり、スピーディにアウトプットとその反応を求める開発には向かないというデメリットもある。
「システム開発には、最初に設計してそれに合わせて開発へとフェーズを進めるウォーターフォール型と、プロトタイプを作って実際に使いながらブラッシュアップを続けるアジャイル型という2つの手法があります。これまでの日本のSIer(エスアイヤー/システムインテグレーター)はウォーターフォール型が主流で、グローバルでのシステム開発は今やアジャイル型が多いといわれています。
それぞれの特性に合わせて長所と短所があるなか、かつての社会基幹を支えるシステムを開発する場合はウォーターフォール型を選択し、一方で、より早くスピーディにアウトプットが求められる場合には、アジャイル型を選択する、この両方の選択肢を常に活用できる状態にして、 “ハイブリッド型”での開発ができることがDX推進には欠かせないと考えています」
安定稼働が絶対条件のシステムと、革新性を売りにするサービスでは、開発において重視することが違う。どちらの開発手法が優れているという問題ではなく、世界がハイブリッド化するなかで、最適な選択肢を選べるかどうかが重要だ。その点において、井上社長はIJDSの強みを顧客やかかわるすべてのステークホルダーとの「共創」だと語る。
「テクノロジーの進化によって、あらゆるものを取り巻く環境が複雑さを増し、将来の予測が困難な状況にあることから“VUCAな時代”(※)と呼ばれています。DXはこれまでのシステム開発と違って作る物が最初から最終ゴールとして明確に定まっているものではないこともあります。システム開発の現場でも、お客様から依頼されたものを作るだけではなく、お客様と一緒にモノづくりをする『共創』のマインドで開発に取り組んでいます」
※VUCA(ブーカ)=Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をつなげたもの。目まぐるしく変化し、既存の価値観が通用しない時代を表す言葉。
「共創」を実現するため、IJDSはこれまで自社で培ったシステム開発のノウハウだけでなく、スタートアップの知見やいろいろなベンダーのSaaS(Software as a Service)ビジネスを活用したエコシステムを作り上げ、そこにクライアント企業や地域の人々もつなげることを目指す。そのなかでは大手・中小といった企業規模や首都圏・地方といった地域、また、そこにいる技術者たちに差は一切無い。
「いろいろな方の意見が入ることこそDXの価値だと考えます。どれだけつながりあって共創できるかが重要。今のDXの流れは、本当の意味でダイバーシティの必要性を実感できるタイミングでもあるのではないでしょうか」
2022年1月、IJDSは自らの開発拠点「イノベーション開発センター」を顧客や地域の協力会社、すべのステークホルダーと共創する「IBM地域DXセンター」として体制や人員を拡充していく計画を発表。まずは北海道札幌市と沖縄県那覇市、宮城県仙台市のセンターの人員を拡大し、新たな開発DXの拠点に。さらに今後は九州などへの展開も予定している。
「これからのシステム開発は、全関係者がアイデアや知識、経験をオープンに共有し、AIをはじめとする先進的なテクノロジーを身につけ、枠を超えて有機的に共創する『テクノロジーを活用した共創パートナーモデル』への変革が求められています。そこでIJDSは、IBM地域DXセンターで活躍する技術者を地域の協力会社をあわせた人財として、2024年までに2500人規模へと拡大し、地域のDX人財育成と新しい働き方を実現します」
システム開発はSIerへ依頼するだけではなく、共に作る時代に。そのためには、DXを推進する企業側でも“DX人材”を育成する必要がある。
「社内DX人財の育成は、企業から相談されるケースも増えています。IT業界全体で人財不足が深刻化していますが、DXには技術的な人財であるエンジニアだけでなく、コンサルティングや共創するためのコラボレーションにおいてコミュニケーションを取る人財も不可欠です。一定のデジタル知識は必要ですが、そのなかでは、学生からシニアまで幅広い人財が対象になるでしょう」
IJDSが教育機関と連携しながら進めている「地域共創DXワークショップ」は、北海道情報大学と連携して北海道の地域創生に産学連携で取り組む新しい試み。北海道情報大学の学生がDXのアプローチを学んだ上で、北海道の企業と共に課題検討を進め、地域の活性化につながるアイデアを共創する。
これまでは首都圏にエンジニアが集まる傾向にあったが、これからは地域で暮らしながら働くエンジニアも増えることが予想され、地域と首都圏もフラットな関係になりつつある。DXの土台が全国に広まった先では、どんな展開が期待できるだろうか。
「現在は日本もデジタイゼーションがある程度進み、デジタライゼーション(※)が組織・企業から業界に及ぶことで徐々にDXのフェーズに入っているものが増えてきた状態です。出てきたベストプラクティスを使わない手はありません。拍車をかけるためにもIJDSは、いろいろな地域に存在する技術者や知見をつなげるハブになるトリガーになっていかなければならないと思っています」
※デジタライゼーション(Digitalization)=デジタイゼーションによる効率化が成され、新しい体験価値が生まれる状態
企業としては社内にDX人材を育成し、IJDSのようなハブとの接点を増やすことが新しいビジネスを生み出すことに直結していくのだろう。井上社長が言うように今後、DXにより多くの人がかかわるようになるのであれば、「サステナブル」「ダイバーシティ」「インクルーシブ」といったキーワードは外せない。デジタル分野においても、密にコミュニケーションを取り、共創を進めていく重要性は日に日に高まっている。
vol.56
DXに本気 カギは共創と人材育成
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
代表取締役社長
井上裕美