小松成美が迫る頂上の彼方

第一部

指9本を失った登山家・栗城史多が挑む7度目のエベレスト

登山家

栗城史多

写真/阿部拓歩 動画/ロックハーツ | 2017.04.10

栗城史多と小松成美のポートレート
ノンフィクション作家・小松成美がアスリートに迫る連載。第2回は登山家の栗城史多氏が登場。“単独・無酸素”での登山にこだわり、2012年には手の指9本を失う経験をしながらも、その不屈の精神力で這い上がり、2017年4月9日日本を出発。7度目のエベレスト登頂に挑んでいる。彼を突き動かすものは一体なんなのか?

登山家  栗城史多(くりきのぶかず)

1982年北海道生まれ。大学山岳部に入部してから登山を始め、6大陸の最高峰を登る。その後、8000m峰4座を単独・無酸素登頂。エベレストには登山隊の多い春ではなく、気象条件の厳しい秋に6度挑戦。見えない山を登る全ての人達と、冒険を共有するインターネット生中継登山を行う。2012年秋のエベレスト西稜で両手・両足・鼻が凍傷になり、手の指9本の大部分を失うも、2014年7月にはブロードピーク8,047mに単独・無酸素で登頂し、見事復帰を果たした。これからも、単独・無酸素エベレスト登頂と「冒険の共有」生中継登山への挑戦は続く。
その活動が口コミで広がり、人材育成を目的とした講演や、ストレス対策講演を企業や学校にて行っている。
近著『弱者の勇気 -小さな勇気を積み重ねることで世界は変わる-』(学研パブリッシング)。

小松 いよいよエベレスト登頂、7回目のチャレンジを迎えますね。

栗城 はい、4月9日に日本を出発します。今回は、季節を秋から初めて春に変えて登頂を目指すことにしました。 

小松 ヒマラヤ山脈にある世界最高峰のエベレストは8848mの山です。生命が一切生存しないその地に栗城さんは過去6回も、無酸素・単独登頂で挑んでいる。今回もそれは変わらないのですか?

栗城 はい、それは同じです。なぜ僕が無酸素で単独にこだわるのか。それは特別なこと、でっかいことをやってやる、という功名心や高揚感からではないんです。素直に、山と自分を感じたい。それだけなんです。合い言葉はフィール。感じることです。

小松 これまで栗城さんはエベレスト登頂において最も困難だとされる秋にアタックを続けてきましたね。

栗城 そうなんです。秋という季節にこだわり続けたのも理由があります。エベレストのピークを目指す登山者が、比較的天候の良い、雪の少ない春を選びます。ところが、山頂へ向かうルートには登山者が殺到し、数珠つなぎになるんですよ。

小松 エベレスト登頂で大渋滞、ですか?!

栗城 ええ。ラッシュが起きるのが春のエベレスト。そこでは自分の求める登山が難しいと感じていました。なので、登頂を目指すアルピニストが敬遠する秋を選んだんです。秋季のエベレストは雪も多く8000メートルを超えると腰までの雪になり、ラッセルで進まなければなりません。また恐ろしく激しいジェットストリーム(偏西風)が吹き荒れるんです。気温はマイナス50℃近くにまで下がります。人間が存在できない環境なので、だからこそ人はいない。静かにたった一人でエベレストに向き合うことができるんですよ。

小松 なるほど。これまで秋にだけエベレスト山頂を目指した栗城さんが、今回は春を選びました。もちろん、そこにも理由があるのでしょうね。

栗城 2016年のアタックで、エベレスト北壁を登ったんです。北壁は平均斜度60度あり標高差も2800mある超苛酷なコースです。天候が安定している春でも、この北壁をルートに選ぶ人はいません。北壁なら山を感じながら山頂を目指せますから。

小松 常人には想像ができない世界を栗城さんは求めている。これまでは山頂にたどり着くことができませんでしたが、今回は山頂に立つ大きな機会になりますね。

栗城 もちろん、そのことも意識しています。8848mに立ってこそ、登山は成功です。つまり僕はこれまで失敗続きなので、応援し支えてくださっている方々のためにもスタッフのためにも成功したいという思いも強いです。でも、同時に、僕の挑戦は頂上にたどり着くことだけを目的にしているわけではないんです。

小松 山頂を極める以外の目的。それは何ですか?

栗城 僕が挑んでいるのは、目に見える山だけでなく、目に見えない「否定」という巨大な壁です。

小松 世の中に蔓延する「否定」という負の意識、ですね。

栗城 僕の挑戦は、「失敗が怖いからチャレンジすることをやめる」「失敗は悪だ」「成功だけを求めよ」という空気を少しでも無くすことが目的なんです。この世界に命を与えられて生きるなら、希望や夢をもちそれに向かって挑み続けたい。そして何者も、希望や夢、そのためのチャレンジを否定することなどできない、と考えています。

小松 そうした思いから栗城さんの大きなテーマである「冒険の共有」がスタートするんですね。

栗城 はい。エベレストに1人で立ち向かう僕の姿を見てもらうことによって、「一歩を踏み出す勇気」を伝えられたら、と願っているんです。

小松 インターネットの生中継も「冒険の共有」のためですね。

栗城 そうなんですよ。僕の思いをリアルに、ダイレクトに共有していただくために、登頂をインターネットで生中継しています。2009年から毎回行っている中継ですが、衛星回線の使用料やスタッフの人件費に5000万円ほどかかってしまいまして。講演などで稼いだ自己資金では足りず、今回も2つの銀行から融資を受けました。

小松 たいへんですね。それでも生中継はやめないのですね。

栗城 「冒険の共有」が僕のテーマである限り、続けたいと思っています。

小松 間もなく栗城さんのエベレストへのチャレンジのライブ映像を見ることができるわけですが、新たなドラマが待っているでしょうね。

栗城 はい、準備などで慌ただしい日々を送っていましたが、そんなバタバタした状態の中でも、リラックスして集中できました。

栗城史多の対談写真

「僕が挑むのは“否定”という見えない巨大な壁です(栗城)」

死んだ指9本を1年間切断しない、という選択

小松 栗城さんの本やSNS、そして山に登った際の映像など、いつも拝見しています。

栗城 ありがとうございます。小松さんも一緒に冒険を共有をしてくださっていますね(笑)。

小松 2012年秋季エベレストでは重度の凍傷になり入院しましたね。栗城さんのチャレンジに声援を送った方々は皆息を飲んで心配したと思います。アルピニストとしての生命線ともいえる指を失ってしまった。その体験を伺ってもいいですか?

栗城 もちろんです。2012年10月に西稜ルートから4度目の挑戦をするんですが、強風により行く手を阻まれて下山します。この下山中に凍傷になり入院しました。両手両足の指と鼻が凍傷になり、治療につとめました。結果、足の指と鼻は残せることになったのですが、手の指9本は第2関節先まで失うことになりました。2013年11月から2014年1月にかけて、手術を受け真っ黒になった指を落としました。

小松 壮絶な体験ですね。防寒に問題があったのですか。

栗城 いいえ、防寒は問題有りませんでした。

小松 ではなぜ?

栗城 少し長い話ですが、聞いてください。2012年に登ったエベレストの西陵という場所は特に秋の風が強いんですよ。成層圏に流れている風が降りて来て、風速30メートル、40メートルがばんばん吹き荒れます。気温がだいたいマイナス35度になる、そこに風速30メートルの風が吹いたら体感温度がマイナス65度くらいになるんですね。

小松 もう、想像をはるかに超えた世界ですね。

栗城 それで8070メートル付近で下山を決意するんですが、降りる段階で凍傷になり、9本の指を失うことになりました。通常は1カ月以内に切断するんですよね。死んだ指をそのままにしておくと敗血症になる恐れがあるので。でも、僕は、切断を断り、1年間、切断しないという選択をしました。体の一部を失うなうことに罪悪感がありました。産んでくれた母に悪いなと思って。

小松 栗城さんのお母さんは、栗城さんが17歳のときに癌で亡くなられますね。

栗城 はい。すごく心配をかけていたので、申し訳ないという気持ちは強かったです。

小松 そういえば、3歳のときにも、指がなくなるかも知れない事故があったんですよね?

栗城 そうなんですよ。3歳の頃にテレビでブルース・リーを見ていて、ヌンチャクの真似をして、裁ちばさみを振り回したらしいんです。

小松 裁ちばさみで、テレビのなかのブルース・リーの真似を!

栗城 気づいたら右手の人差し指がなくなっていて。当時僕は、指も髪の毛のように生えてくるんだと思っていて。お母さんに怒られると思って、ポケットに隠したんですね。でも血だらけなんで、「史多どうしたの?! 何があったの」と、大騒ぎになりました。

小松 そりゃあそうですよ。そのときは、縫えたんですね?

栗城 若干曲がっていましたが、ちゃんとくっつきました。

小松 そんなお母さんとの思い出もある指を無くしたくなかった。

栗城 病院ではすぐに切断した方がいいと言われたんですが、「可能性を探すんだ」と言って断りました。周囲に呆れられましたけど。

小松 そうやって強引に壊死した指を残している間は、どんな状況だったのですか?

栗城 壊死している指が、なんとかくっついている状態でした。

小松 色は黒くなってしまっていましたね。かなり衝撃的な写真も公開されていました。

栗城史多の凍傷闘病時の写真

2012年の5度目のエベレストへの挑戦で、両手、両足、鼻が凍傷に。その後指を9本切断。

栗城 もう本当にミイラのような指でしたね。切断しないと菌が回って敗血症になってしまい、命さえ落としてしまうのが常識なのですが、しかし、そのときに診てもらっていた漢方の名医がつくってくれた薬で、敗血症を抑えることができたんです。

小松 その漢方はどのようなものなんですか?

栗城 煎じて飲むお茶のようなものなんですけど、効果抜群でした。おかけで、1年間は手術をせずに過ごすことができました。でも、結局、黒くなって組織が死んでしまった指は切断しなければならず、アメリカにマトリステムという人体の組織を再生する塗り薬があると聞き、その再生治療に賭けました。その再生治療をしながら、リハビリを続けたんです。

小松 そこでも、あきらめないわけですね。

栗城 本来、切断した場合は縫うんですが、そうすると切断した断面から5ミリ短くなるんですよね。でも僕はそのマトリステムっていう薬で5ミリ伸びたんです。ということは、すぐに切断した場合より、1センチ指を長く残すことができた。9本の指を失って、はじめは靴ひもも結べなかったんですが、5ミリくらい出てきたおかげで、物を掴む力が出てきたんです。練習して靴紐も結べるようになった。それでギリギリ登山道具が持てるようになり、登山を辞めずに済みました。

[続く]第二回/栗城史多の挑戦を支え続ける、ある言葉と思い

小松成美の対談写真

ノンフィクション作家。神奈川県横浜市生まれ。専門学校で広告を学び、1982年毎日広告社へ入社。その後放送局勤務など経て、1989年より執筆活動を開始し、スポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多ジャンルで活躍。堅実な取材による情熱的な文章にファンも多い。代表作に『中田英寿 鼓動』『勘三郎、荒ぶる』『熱狂宣言』(すべて幻冬舎)『それってキセキ』(KADOKAWA)など。

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vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
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