未来を創るニッポンの底力
株式会社中川政七商店
代表取締役社長/十三代
中川政七
写真/吉野洋三(TAKIBI) 文/竹内三保子(カデナクリエイト) | 2017.12.11
株式会社中川政七商店 代表取締役社長/十三代 中川政七(なかがわ まさしち)
1974年生まれ。京都大学法学部卒業後、2000年富士通株式会社入社。2002年に株式会社中川政七商店に入社し、2008 年に十三代社長に就任。日本初の工芸をベースにしたSPA業態を確立し、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンのもと、業界特化型の経営コンサルティング事業を開始。初クライアントである長崎県波佐見町の陶磁器メーカー、有限会社マルヒロでは新ブランド「HASAMI」を立ち上げ空前の大ヒットとなる。2015 年には、独自性のある戦略により高い収益性を維持している企業を表彰する「ポーター賞」を受賞。「カンブリア宮殿」「SWITCH」などテレビ出演のほか、経営者・デザイナー向けのセミナーや講演歴も多数。著書に『小さな会社の生きる道。』(CCC メディアハウス)、『経営とデザインの幸せな関係』(日経 BP社)、『日本の工芸を元気にする!』(東洋経済新報社)。
中川政七商店は1716年に奈良晒(ならざらし)の卸問屋として誕生。2016年に創業300年を迎えた老舗企業だ。ちなみに奈良晒とは、麻生地を白く晒した高級織物。起源は鎌倉時代と古く、南都寺院の袈裟として使われていた。「麻の最上は南都なり」(日本山海名物図会/1754年刊)と評されるなど、その品質の高さから、奈良の特産として隆盛を極めたという。
現在では“日本の工芸を元気にする!”というビジョンのもと、服飾品や食器、インテリアといった衣食住にまつわる、日本各地のさまざまな工芸品をベースとした生活雑貨を扱い、全国に約50のブランド直営店を展開している。この15年で年間売上高は、12億円から52億円(2017年2月期)にまで拡大し、見事な成長を遂げている。この躍進を牽引しているのが、2008年に弱冠34歳にして社長に就任した中川政七氏だ。創業300周年を迎えた昨年、十三代の名跡を襲名している。
「大学卒業後は家業を継ぐ気もなく、富士通に入社しましたが、大企業のサラリーマンになって改めて実感したのは、自分で事業を動かす立場になるためには長い時間がかかること。そこで、すぐにでも経営に携わりたいという思いから、家業だった中川政七商店に2002年に転職したわけです。結局、富士通には2年しか勤めませんでした」
当時の中川政七商店は、父親が担当する第一事業部と母親が担当する第二事業部に分かれていた。オンワード樫山で働いた経験もある父親は、茶器を包む茶巾(茶碗を拭くための麻の布)を手掛けていたことを足掛かりに、取扱商品を茶道具全般に広げていた。
「最初は第一事業部に入りましたが、親父がちゃんとした商売のカタチをつくっていたので、とくに新しくやることはなかったんです。デザイナーでもある母親が運営する第二事業部をのぞくようになったのですが、そこにはおかしいと思うところが沢山あった」
第二事業部に異動になってまず手掛けたことは、管理体制を中心とした業務改善。「在庫切れを起こさないよう、生産計画を立てる」「効率のいいやり方があれば改善する」「数値管理をする」といった、商品を作る以外でずさんだった部分の立て直しからスタートさせた。赤字を減らし、1~2年かけて何とか経営ができるレベルに業務を引き上げてからは、「物売り」から「ブランドづくり」へのシフトを始めることになる。
同社が大きく飛躍していくきっかけとなったのは、製造卸業が中心だった業態を、直営小売店の出店を加速させ、SPA(製造小売業)へと転換させたことだ。目的は中川政七商店としてのブランドを確立するためだった。
「私はソニーが昔から大好きで、たとえ他所で同じようなものを安く売っていても、ソニー製品を優先的に買う。このように、はじめから商品が下駄をはいた状態になることがブランドを確立した企業の強さです。一方、ソニーのような資本力があるメーカーなら、CM等で様々なメッセージを伝えられますが、我々のような中小企業ではそんな資本力はない。じゃあ、どうするのか。私は、それが直営店の出店を拡大させることだと考えたのです」
小売の実店舗があれば、ものづくりの想いや魅力を正しく伝えられる。もっとも中小企業にとっては、小売店の経営自体が大変だ。ブランドの世界観を表す店舗デザイン、ロゴ、テナント料、在庫の確保、さらには販売スタッフの確保など、店を維持するためには膨大な費用が発生する。しかし、中途半端にやれば、何も伝わらない。やるなら徹底的に取組む必要がある。
ブランドづくりの際に、もっとも参考にしたのは、auの外部デザインディレクターを務めるなど日本のプロダクトデザイン界を牽引する、コンセプター・坂井直樹氏の著書『エモーショナル・プログラム バイブル』。それを参考に、既存のブランドについて、価値観と感性年齢のマトリクス図作成を実践した。たとえば、当時第二事業部が担当していた、ミセス層へ向けたライフスタイル提案を主とするブランド「遊 中川」を、マトリクス図で分析してみると、実は取り扱っている商品ジャンルがより若く、モダンな層に対して、潜在的なマーケットがあることが判明。この結果に基づき、新たなターゲットへ向けた新ブランド「粋更 kisara(きさら)」(相手を思いやり、贈る心を形に)を2003年に誕生させた。このように、ターゲットとコンセプトの明確化を徹底したのだ。
同じ手法を応用し、現在では「中川政七商店」(暮らしの道具)、「日本市」(日本の土産もの)、「motta」(肩ひじ張らないハンカチ)、「2&9」(リピートしたくなるくつした)など、計7ブランドを展開している。
「直営店の拡大を決意した頃、タイミングよく玉川高島屋と伊勢丹新宿店から出店の声をかけていただき、ある意味、店舗運営の基本を学ぶことができました。ブランド確立のきっかけになったのは、13店舗目となる2006年の表参道ヒルズへの出店です(現在は閉店)」
ここから同社の快進撃が始まる。世界の一流ショップが集まる表参道ヒルズへの出店は、一流ショップであるとのお墨付きをもらうことでもある。同社の知名度は急上昇し、途端に出店や商品の発注が次々に舞い込むようになった。年商も中川社長の入社当時の12億円から現在では52億円(2017年2月期)にまで急拡大。工芸メーカーとしていち早くSPA(製造小売業)を確立し、ブランドづくりを見事に成功させたわけだ。
SPAに転換してから売上は急増したが、本当の意味で会社の質が変わったのは2007年。社として“日本の工芸を元気にする!”というビジョンを掲げてからだ。
「当初は、事業部を立て直し、ブランドを確立することに夢中でしたが、僕自身は、ひたすら利益だけを追求したいというタイプではないので、経営が軌道に乗り始めると悩み始めました。そこで、会社に家訓とか理念があればいいと探したけど、家訓どころか商標もなかった。何のために会社が存在するのか、自問自答が始まりました」
そんな中で、ある時気づいたのが、毎年、数件は工芸品メーカーや職人から廃業の挨拶があることだった。ピーク時の1983年時点では5400億円規模だった工芸品産業の市場は、2014年度には1000億円にまで落ち込んでいる。工芸品は一般的に分業制なので、一社の廃業が、ことによると産地全体の生産に影響を与えることもある。次第に、これを何とかしたいと考えるようになった。
「デザインが工芸を変えるとか、いろんなフレーズを考えました。しかし、自分が命懸けで取り組めるような、強度のある言葉はなかなか出てこなかった。数年考えて、やっと“日本の工芸を元気にする!”という腹落ちするフレーズが出てきました。ビジョンができれば、それを達成していくために必要なことが見えてくるので、それをひとつひとつ実現するだけ。この10年間はひたすら、それをやっています」
2016年には中川政七商店は300周年を迎えた。300年を振り返れば、同社は何度となく窮地を乗り越えてきた。たとえば、江戸時代が終わって、奈良晒の主な供給先だった武士の裃の需要が無くなった時には、汗取りや産着などの用途を見出し、新たな市場を切り開いた。中川社長の祖父、11代の時代には、人件費の高騰と機械化の波に押された高度成長期だったため、手作業の技術を守るべく韓国、続いて中国に生産拠点を移した。そして先代の父親は麻の茶巾をはじめ、茶道具関連の取扱商品を増やしていった。
このように伝統や常識にとらわれることなく、大胆な転換を何度か繰り返してきたことで、300年間生き残ることができた中川政七商店。次の100年を生き残るためには、どうすればいいのか。
「もっとも大きな目標は、工芸品や食品など、日本に現存している300の産地を100年後に残すこと。そのためのサポート体制づくりに取り組んでいるところです。それから、次の社長は選択肢を広げるために、中川家以外から出す予定。300周年を期に、私が中川政七の名を襲名したのは、そのためです。次期社長も中川政七を襲名すれば、他家の人が社長になっても違和感がありませんからね」
見据える先は“工芸大国・日本”。その目標に向け、同社では窮地に立つ工芸業者のコンサルティングをはじめ、工芸を観光コンテンツとしても拡充していくといった施策でも結果を出しつつある。このようなしなやかな発想が、日本の工芸品、産地を救ってくれるに違いない。
vol.56
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