未来を創るニッポンの底力
旭酒造株式会社
代表取締役社長/4代目蔵元
桜井一宏
写真/芹澤裕介 文/松本 理惠子 | 2018.06.29
旭酒造株式会社 代表取締役社長/4代目蔵元 桜井一宏(さくらい かずひろ)
1976年生まれ、山口県周東町(現岩国市)出身。早稲田大社会科学部卒。大学卒業後、酒造とは関係のない東京のメーカーに就職。2006年、実家の旭酒造に入社、常務取締役となる。2010年より取締役副社長として海外マーケティングを担当。2016年9月、代表取締役社長に就任、4代目蔵元となる。
今でこそ4代目蔵元として活躍する桜井氏だが、もともと家業の酒蔵を継ぐつもりはなく、大学進学とともに山口から上京。卒業後はそのまま都内の一般企業に就職した。
彼が大学を出た1990年代末頃といえば、日本酒業界全体の売上が落ち続け、多くの酒蔵が事業の将来性に不安を抱えていた時代だ。家業に魅力が感じられず実家を離れていた桜井氏は、日本酒そのものにもあまり興味がなかったという。当時を振り返ってこう語る。
「当時、居酒屋で飲む酒は冷やか熱燗くらいしかなく、“日本酒ってこんなものか”という認識でした。実家から送られてくる『獺祭』はおいしいとは感じていましたが、“わが子のために何か特別な酒を送ってくれているのだろう”くらいにしか思っていませんでしたね。親がどんな酒造りをしているかなどを深く知ろうとは思いませんでした」
だが、たまたま入った六本木の居酒屋で「獺祭」を見つけ、自分の稼いだ金で初めて飲んだとき、実家の酒への認識が一変する。
「同じ値段の他の日本酒より、断然うまい」
改めて実家の酒造りを調べたところ、常識を打ち破る唯一無二の酒造りをしていることを桜井氏は知った。
「たまたまラッキーで業績が伸びているのではなく、考え抜かれた酒造りの結果であることが分かりました。これは、自分が後を継いで守っていかなければと思いました」
桜井氏は2006年、勤めていた会社を退職し、旭酒造に入社する。最初の1年半ほどは各部署を回って、製造の下働きをした。
入社して1年ほどが経った2007年、「獺祭」の海外進出を考えていた父・博志氏がハワイで行われたフードショーに参加。翌年は同様のショーがニューヨークで行われるということで、桜井氏も父に同行するかたちで現地に渡った。そこで、桜井氏に驚きの展開が訪れる。
「ショーの前日、父に呼ばれて突然〈お前、ニューヨークの担当者なのに、明日どうするんだ〉と言われたのです。どうするも何も、〈え、俺、海外担当者だったの!?〉と唖然としましたね(笑)」
だが、右も左も分からない分、かえって怖さは感じなかった。試しに参加して様子をうかがってみようという程度の目標値だったこともあり、「売り込まなければ」というプレッシャーからも無縁でいられた。
海外進出については当初、桜井氏は父とは意見が異なる否定派だった。日本酒が外国人に好んで飲まれるイメージが浮かばなかったためだ。
「一般企業のサラリーマン時代にニューヨーク旅行をしたとき、そこそこ良いホテルのバーで現地の人が“SAKEティーニ”という日本酒カクテルを飲んでいる場面に遭遇しました。日本酒とジンを混ぜて、ピックにキュウリを刺したものを入れたマティーニ風のカクテルなのですが、いつ開封したか分からない古そうな日本酒を使っていて、こういう日本酒を良しとする人たちには、『獺祭』の良さは分かってもらえないだろうと思ったのです」
ところが、2回3回とアメリカを訪れているうちに、アメリカ人も意外とまともに日本酒を飲んでいることが分かり、「これなら売れるかもしれない」という予感のようなものが桜井氏の中に芽生える。
SAKEがアメリカで飲まれるようになったのは約20年前、「月桂冠」や「松竹梅」などの大手日本酒メーカーが海外展開を開始し、市場を開拓したことに始まる。その後、「久保田」「八海山」「越乃寒梅」など新潟の有名メーカーの酒が進出し、第一次のSAKEブームが起きた。旭酒造が海外展開に着手したのは、その少し後だ。第一次SAKEブームによって、アメリカでも“味の分かる日本酒ファン”が密かに増え始めていたのである。
桜井氏は海外マーケティング担当として年の半分をアメリカで過ごし、本格的に販路開拓に乗り出すようになる。当時、他の日本酒メーカーの海外担当者はフードショーのときだけ出張してくるケースがほとんどで、桜井氏のように腰を据えて営業する者はあまりいなかった。
「相談する相手もおらず、市場開拓のやり方も分からないので、飲食店や酒屋を一軒一軒訪ねて飛び込み営業をしました。英語も喋れなかったので、とにかく『獺祭』を飲んでもらい、興味があったら連絡してほしいと名刺を置いてくる、その繰り返しでした」
桜井氏の地道な営業は、ドラマのようにはうまく実を結ばなかった。新潟や福島など東北の酒はそれなりに知られていたが、山口は酒どころのイメージがなく、現地で和食店を営む日本人オーナーにさえも見向きされなかったのだ。値段が安いわけでもなく、酒瓶がお洒落でもない「獺祭」はフラれ続けた。
しかし、桜井氏の知らないところで「獺祭」はその存在感を示しつつあった。
「日本で『獺祭』を飲んだお客様たちが、アメリカで食事に入った店で〈なんで『獺祭』を置かないの〉と言ってくれたのです。それで飲食店のオーナーが興味を持ってくれ、発注が増えていきました」
旭酒造は先代の頃より、“自分たちがおいしいと感じる酒を造る”ことにこだわり、それだけを愚直にやってきた。積極的に宣伝やブランド化をしなくても、おいしいものを造れば消費者は買ってくれる。
日本で「獺祭」が人気になったのは、ひとえにその味に多くのファンが惚れ込んだからだ。はるか海を越えたアメリカでも、その信念の正しさが証明されたといえる。
現在、旭酒造の海外移出金額は20億円を超える規模となっている。2010年の市場開拓から8年で、実に20倍以上に急拡大した。
さて、2016年9月に先代から経営を引き継ぎ、4代目当主として陣頭指揮を執る桜井氏。先代のやり方で大事にしていることは、スピードだ。
「思いついたことはすぐに行動に移す。ダメなら引き返してやり直せばよいので、とにかくやってみる。そのスピード感は、父から学びました。
うちのように独自路線で勝負している会社は、挑戦の足を止めると終わりです。失敗したからといって出世の道が途絶える大企業とは違うので、どんどんチャレンジしようということは、社員にもいつも言っています」
一方で、おいしい酒を造ることへのこだわりも守っていく。
「結局、おいしい酒を造ることが“答え”であるというのは、今後も変わらないと思います。そこを変えてしまうと、もはや旭酒造ではなくなってしまいます。軸の部分は変えないで、いかに新しいチャレンジをしていくかというのが、今の課題ですね」
4代目としては、先代のやり方を“なぞる”だけではいけないという思いもある。旭酒造に入社した最初の頃、桜井氏は先代からこんなことを言われた。
「俺は自分の思ったようにやる。お前は俺のやり方を見て、ストレスを感じる部分を自分が社長になってから変えればいい」
偉大な先代を持つ後継者の中には、“先代とは違う”ことや“自分もやれる”ことを誇示したくて、強引に新しいことに着手するケースがある。だが、桜井氏の場合は、独自性を出したいがために、無理に本筋でないことをやるのは違うと考えている。
「父がやってきたことで大きく間違っていると感じることは、今のところありません。だから、無理に変える必要はないと思っています。ただ、先代のやり方を良いと思いながらも、変えたほうが良いのかなと迷う場面は時々あります。そういうとき、先代がまだ会長として現場にいるので、どこまで自分の意見を押し通すべきかのバランスが難しいと感じます」
副社長の立場で先代の経営を見ていたときと、実際に経営者として表舞台に立った今では、責任の感じ方が全然違うと桜井氏は話す。
「副社長のときは、従業員が結婚したと報告を受けると単純に喜ぶだけだったのですが、今は背筋が伸びる思いが加わりました。従業員だけでなく、その妻や子の生活も私の肩にかかっているのですから」
業績不安の企業では、結婚して家族をもうけるライフプランを描くことも難しい。結婚する従業員が出てくることは、それだけ旭酒造が将来性のある企業であることの証左でもある。
「現在、旭酒造は従業員が245人。彼ら全員の人生が豊かになるよう、業績を維持・成長させていくことが私の使命です。海外市場については、今後10年間で10倍の200億円を目指します」
社長になって2年、3代目から渡された経営のバトンは、4代目によって更なる高みへと運ばれようとしている。
◇旭酒造株式会社
所在地:〒742-0422山口県岩国市周東町獺越2167-4
1948年(昭和23年)設立。普通酒「旭富士」が主要銘柄だったが、3代目・桜井博志氏が蔵元になってからは、「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒を求めて」をモットーに、日本酒は山田錦のみを使用した精白50%以下の純米大吟醸「獺祭」のみを出荷。1992年に製品化した「獺祭磨き二割三分」でその地位を確立。近年は海外の販売を強化しており、現在20カ国以上に輸出。2018年6月、パリにジョエル・ロブション氏との共同店舗「ダッサイ・ジョエル・ロブション」をグランドオープン。2019年秋、ニューヨークの醸造所をオープン予定。
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