ヒラメキから突破への方程式
株式会社バルニバービ
代表取締役
佐藤裕久
写真/宮下 潤、動画/トップチャンネル、文/福富大介 | 2014.12.10
株式会社バルニバービ 代表取締役 佐藤裕久(さとうひろひさ)
1961年京都市生まれ。ファッション業界での起業と挫折を経て、91年、二度目の起業としてバルニバービ設立。大阪市立中之島公園内のカフェや140年の伝統を持つナポリのピッツェリアの世界2号店など、30店舗以上の飲食店を経営。著書に『一杯のカフェの力を信じますか』(河出書房新社)、『日本一カフェで街を変える男』(グラフ社)など。2012年、好評を博したKBS京都の日曜深夜番組『サトウヒロヒサの眠りにつく前に』が、13年4月に再開、パーソナリティを務める。
「子どもの頃は、学校から帰ると台所に立ち、祖母の隣で料理を手伝っていました。ウチはなにかともめることが多く、決して仲のいい家族とは言えなかったけど、僕がつくったサンドイッチやチャーハンが食卓に並ぶと、自然に温かな空気が流れて場が和む感じで……。それが今の僕のルーツなのかもしれない」
それから紆余曲折を経た佐藤氏は、33歳で一念発起。挫折しそうになった自身の心を癒やしてくれたパリのカフェをイメージして、大阪南船場にカフェスタイルの店「アマーク・ド・パラディ」をオープンする。出店場所は人通りの少ない街の一角にたたずむ古い倉庫ビル。開業当初こそ厳しい経営を迫られたが、手づくりの心地の良い空間とこだわりの音楽、ミルクたっぷりのカプチーノを提供し続けるうち、店の評判はクチコミで広がり、わずか半年足らずで大繁盛店へ。
その後にオープンした店も人気を集め、会社はわずか3年で7億円、4年目には18億円の売上を達成するまでに急成長する。当時、外食産業が新しいベンチャーとして囃し立てられた時期。メディアも佐藤氏をカリスマ経営者として祭り上げた。
そんな佐藤氏のもとに、「お金はいくらでも用意するから、もっと面白い店をやって欲しい」というオファーが相次いだ。
「開業資金の心配もせずに、自分たちが好きなようにプランニングして、デザインして、オペレーションできるんですからね。願ったりかなったりでしょう? でも、世の中、そんな上手くいくはずない。周りに囃し立てられ、調子に乗っていただけなんですよ」
それは、ある晩、自宅のベッドで横になっている時だった。突然、佐藤氏の全身はガタガタと震え出し、目に見えない恐怖に襲われたという。
「虚構の店とともに奈落の闇に転げ落ちていく、自分たちの姿が見えたんです。このままでは、本来の目的を見失い、これまで僕を支えてきてくれた仲間を不幸の道連れにしてしまう。今すぐ、そこから脱却しなければ大変なことになる。そう確信したんです」
しかし、勢い余って前へ前へと進んでいる事業を闇雲にストップさせては会社が潰れ、社員たちを路頭に迷わせることになる。
「何かいい方法はないものか」と考究した佐藤氏は、まず「これは違うな。自分たちが本当にやりたかった店ではないな」と思う店から、整理していくことにした。
「本来の姿を取り戻すまでに、5年ほど掛かりました。店を閉めれば、その分の売り上げが減るだけじゃなく、何千万円という違約金を払う必要も出てきます。でも、僕の心に迷いはなかった。僕たちが心の底から『こんな店あったらいいな、行きたいな』と思える店じゃなければ、自分たちでやる意味がない」
そして2005年4月、大阪の店を整理し終えた佐藤氏は満を持して東京に進出。東京タワーのふもとにオープンしたレストラン「ガープ・ピンティーノ」は大きな話題を集めることになる。
「その頃はね。東京タワーの周りは人通りも少なくて、夜は真っ暗。でも、大阪から出てきて、ひとり東京タワーのふもとを歩いていたら、闇夜に光を放ってそびえる姿がものすごくきれいで、温かく感じて。『あぁ、ここで店やりたいなあ』って思ったんです。
何を言いたいかというと、自分の心と正直に向き合うことが大切なんだってこと。だからね、僕がやりたいのは外食産業じゃないんだろうなと。子どもの頃、家族に喜んでもらいたくてサンドイッチやチャーハンを一生懸命につくっていた時の気持ちと全く変わらない。自分が大切にしたい場所で、大切な人のために、おいしい物をつくって喜んでもらえる“食べ物屋”でいたいんです。
ただ、“努力は報われる”ことばかりじゃない。報われない努力も山ほどある。それでも、必ずやり遂げるという覚悟をもって、自分が本当に好きなこと、得意なこと、そして社会に役立つことを懸命にやり続けることが面白い。だから今日も仲間たちと共に走り続けています!」
vol.56
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