Passion Leaders活動レポート

[パッションリーダーズ全国定例会]

一流とは何か トップアスリートたちの真実

ノンフィクション作家

小松 成美

文/宮本育 写真/阿部拓歩 | 2021.04.20

中田英寿やイチローなど、数多くのアスリートたちを取材してきたノンフィクション作家・小松成美氏。2020年から1年の延期を経て今夏に東京オリンピック・パラリンピック開催を控えるなか、アスリートたちは新型コロナウイルス感染拡大防止と、競技への渇望との間で激しく葛藤している。その声なき声を届けるため、彼らがもつ哲学を、小松氏による過去の取材エピソードと共に語った。その哲学は、今なお厳しい現状を耐えている、多くの経営者の胸を打った。(2021年3月23日に開催されたパッションリーダーズ全国定例会より)

 ノンフィクション作家 小松 成美(こまつなるみ)

1962年生まれ、神奈川県横浜市出身。専門学校で広告を学び、1982年に毎日広告社に入社。放送局勤務などを経た後、作家に転身する。書くことは生涯をかけて情熱を注ぐ「使命ある仕事」と信じ、1990年より本格的な執筆活動を開始する。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、中田英寿、イチロー、YOSHIKIなど数多くのアスリート、アーティストらの内面を鮮やかに描き出した人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ、コラム、小説を執筆。最近では、起業家や政治家にフォーカスした書籍も出版され、昨年は浜崎あゆみをモデルにした小説『M 愛すべき人がいて』がドラマ化され話題となった。毎月一回開催されているオンラインサロン「人成塾」は、様々な出会いと気づきの機会として好評を博している。

コロナ禍での東京2020オリンピック・パラリンピック

小松成美氏 アスリートたちは今、声を奪われています。彼らがメディアやSNSで「オリンピックがやりたい」「国民の皆さん、開催を支持してください」と言ったらどうなるでしょう。絶対にバッシングされますよね。

私たちは彼らにどれだけ多くの勇気や感動、歓喜を与えられてきたでしょうか。トップアスリートに私たちはメダルを獲ってくれと願いますよね。そしてその栄光の瞬間には、共に、自分のことのように涙を流します。けれども、今、彼らの側に立って声を上げられる人はほとんどいません。

でも、それでいいのかもしれません。命が一番大事です。今は新型コロナウイルスを封じ込めることが一番大切です。ですから、声高に言う必要はありません。ただ、私の話を聞いてくださった皆さんは、どうか心の内でアスリートのことを思い、彼らが私たちに与えてくれた感動と歓喜を、どうぞ何度も何度も繰り返し、思い起こしてください。

胸に秘めているアスリートたちの声

フリークライミングの楢崎智亜(ならさき ともあ)選手をご存知ですか? フリークライミングは、東京オリンピックから正式種目になり、彼は金メダルに最も近い選手といわれています。25歳の彼は、この1年の延期を意に介しませんでした。

「自分の目指すものは何も変わりません。ひたすら金メダルを目指し、そして応援してくれる日本のファンの方たちに金メダルを見せます」

と、今この瞬間も、トレーニングを続けています。

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同じ、フリークライミングの代表である野口啓代(のぐち あきよ)選手は、30代のベテランアスリートです。東京オリンピックに出場が決まったときに、感動の涙を流して、体を震わせながら、こう言いました。

「東京オリンピックが終わったその瞬間、私は引退します。最後の舞台で、私は自分の実力をすべて発揮できるよう、時間を過ごしていきたいです」

30代になってからのアスリートの時間は、20代のそれとは違います。彼女は今、女子フリークライマーにおいてトップ選手か否かわかりません。若い選手の実力が勝って、今、代表を選んだら、彼女が代表になれるかどうかわからないのです。そうしたなかで、彼女は開催の日を待っています。

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柔道のヒロイン・阿部詩(あべ うた)選手。お兄さんである阿部一二三(あべ ひふみ)選手と共にオリンピックに出場するのが夢だと言いました。そして、それを実現できる切符を手にしたのです。

「東京オリンピックが延期になりましたが、代表としての覚悟を持ち続け、開催に向かってどんな状況でも努力していくだけです」

そう言って、稽古を続けています。

「オリンピックはアスリートの人生のすべてです」

そう言ったのは、世界で最も過酷なコンペティションがあるといわれている、女子レスリングの川井梨紗子(かわい りさこ)選手です。彼女は、オリンピック4連覇の伊調馨(いちょう かおり)選手を破って、今回の東京オリンピック出場権を勝ち取りました。もう1回、代表戦を行ったら伊調選手が勝つかもしれない。もし東京オリンピックが中止になったら、自分の人生はこれまでのものとは異なるものになるでしょう、と彼女は言いました。

ですが、彼女は、中止にしないでくださいとは言えません。人の命が一番大事だということを、アスリートが最も知っているからです。

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私の地元である横浜に、大橋ボクシングジムがあります。そこには世紀のチャンプ・井上尚弥(いのうえ なおや)がいます。今、井上尚弥2世と呼ばれているのが、堤駿斗(つつみ はやと)選手です。

「現役中に日本でオリンピックが開催されることなんて、ない。プロで世界チャンピオンになるのは、その後でも間に合う。まずは、東京オリンピックで金メダルを目指します。この唯一無二のチャンスを私自身は目標としていきたいです」

と彼は言いました。

けれども、代表を決める最終選考が中止になり、現時点では、堤選手は東京オリンピックに出場することはできません。

何とか救済措置はないものか、関係者たちは考えましたが、彼にだけ特例を与えることはできません。プロになることはオリンピックの先だと言っていた彼の人生は、今、宙ぶらりんになり、彼自身、日々、苦しみを抱えながらリングに上がっています。

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「1年はちょっと長い。体力的、年齢的に事の重みを感じています。2年延期なら、その瞬間に私は引退したでしょう。でも、今は中途半端で終わりたくない。なので、一度心をリセットしたいと思っています」

そう言ったのは、ウエイトリフティングの三宅宏実(みやけ ひろみ)選手です。彼女は35歳。ロンドンで銀メダル、リオで銅メダルを獲った、日本女子ウエイトリフティングのレジェンドです。その選手が、東京オリンピックだから現役を続けました。けれども、1年延期となってしまった。

34歳で迎えるはずだった最後のオリンピック。それが35歳の今、まだ代表権も獲得できていません。東京オリンピックに出場し、自ら花道の扉を閉じてエンディングを迎えたいという思いは、まだ答えが出ないままです。

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体操の内村航平(うちむら こうへい)選手は、昨年末、ある大会の最後に、声を震わせながらこう言いました。

「どんなバッシングを受けるかそのことを想像し、覚悟をもって皆さんに伝えます。新型コロナウイルス感染拡大のさなか、オリンピックをやるなんて非常識だという意見があることはよくわかっています。けれども、この東京オリンピックを目指してきた選手としては、どうしても東京オリンピックに出場したい。だから、どうかその気持ちを少しだけでもわかってほしいです」

彼の後ろで若い選手たちが泣いていました。このことがネットニュースに掲載されるや、コメント欄にはバッシングの言葉が連なっていました。

東京オリンピックに満身創痍で挑む覚悟でした。腰も、肩も、肘も、ケガを負いながら競技を続けてきたのです。そこまでして臨みたかったのは、母国開催のオリンピックだったから。それにほかなりません。

彼は、東京オリンピックで結果を出すためにある決断をしました。個人総合40連勝の王者です。しかし、金メダルを確実に手にするために個人総合を捨て、そして鉄棒一本に絞ったんです。鉄棒でならどんなに体が痛くても、一つの種目に集中して戦えるので、メダルを目指せると。強い覚悟をもってオールラウンダーから鉄棒のスペシャリストへと転向しました。

その彼もまた、ケガと戦いながら、今も開催を信じて、東京オリンピック開催の日を待っています。

アスリートたちは、こうして今も、声を上げられない状況のなかで、東京オリンピック開催の日を待っています。このことをどうか心にとどめておいていただきたいと思います。

オリンピック開催の意義とは

「より速く、より高く、より強く」

これがオリンピックのモットーです。なんて端的で素晴らしいキャッチコピーでしょう。アスリートの躍動感、可能性、人間の肉体が持つポテンシャル、そうしたものをこの短い言葉で示しています。

私たちはメダルや新記録に熱狂しますが、実はオリンピック憲章には、金メダルこそ素晴らしい、新記録こそ人類の進歩だ、などとは書かれていません。オリンピック憲章第一章の冒頭にはこう書かれています。

「オリンピズムとオリンピズムの価値に則って実践されるスポーツを通じ、若者を教育することにより、平和でより良い世界の構築に貢献することである」

オリンピックアスリートは、その最前線に立つ戦士です。未来を築く若い世代のために、希望を与え、また、平和な世界を未来にもつなぐためにオリンピックは開催されるのです。

苦境を超える、一流アスリートたちの精神哲学

卓球:石川佳純選手の場合

石川佳純(いしかわ かすみ)選手は、17歳で日本代表に入りました。ここで彼女は、大きな挫折とその後の転機を迎えることになったのです。

大きな舞台に立ったことがあまりなかったため、まったく実力を発揮できなかった佳純ちゃん。1回戦こそ何とか勝ちましたが、2回戦では手も足も出なかったんです。私も観ていましたが、別人のようなプレーでした。このまま負けてしまうかもしれない……。

すると、観客席で観ていたファンの人たちが帰っていくんです。まだゲームは終わっていないのに。こんな子どもを入れるから、と、これまで応援していた人たちが手のひらを返しました。彼女はその光景を、相手選手と戦いながら目の当たりにするんですね。

彼女はそれを見て、「ごめんなさい。私がこのユニフォームを着てはいけなかった。私が選ばれていなかったら、誰かもっと優秀で、最後まで頑張れて、こんな無様なゲームを戦わない誰かが立っていたのに。こんなに弱虫で、ダメな私でごめんなさい」と思ったそうです。そうすると、涙があふれて止まらなくなったと言っていました。

相手にやりこめられて、涙を拭いながら戦っていました。

そのとき、監督が声を上げました。

「佳純! 勇気を出しなさい! いつものあなたのように思いっきり腕を振り抜くんだ!」

監督の声を耳にして、彼女は気がつきました。緊張で体がこわばり、腕が思うように動かなかったことを。そこで、大きくテイクバックして、思いっきり腕を振るんですね。すると、エースが決まりました。

そこからは破竹の連打。4セットを取って、2回戦、3回戦と勝ち上がり、準決勝にまで進みました。そこで世界1位の中国選手と戦い、なんと1セットを獲得。この様子は世界に外伝となって報じられ、「石川佳純、ニューヒロインの誕生」と大きなニュースになりました。

佳純ちゃんは私に何度もこう言いました。

「どんなに大きな舞台に立ってメダルを獲得しても、私は17歳のころの弱い、ダメな、本当に泣き虫な自分をそこに置いています。そして、ゲームの前に17歳の自分を思い起こし、『世界を相手に戦う勇気はある?』『恥ずかしい自分はいない?』と自分に問いかけ、ゲームに挑むんです。でも、弱かった、泣き虫な、本当にダメな自分は、とても大切な存在です。なぜなら、それがオリンピックアスリートになった自分の原点だから」

弱い自分を生涯、胸に住まわせて生きていく。だからこそ、戦えると言った佳純ちゃんは、伊藤美誠(いとう みま)選手、平野美宇(ひらの みう)選手を率いて、東京オリンピックでメダルを届けることを自分のミッションだと言います。

テニス:錦織圭選手の場合

テニスは、プロテニスプレーヤーがオリンピックに参加できる競技の一つです。錦織圭(にしこり けい)選手は、日本代表になることがほぼ間違いないといわれています。

その彼がコートに立つとき、いつも自分に言い聞かせている言葉は、

「不可能を可能にする強靭な意志と想像力をもつ」

圭君は、日本1位になった小学6年生のとき、グランドスラムを獲得すると宣言しました。そのとき、ほとんどの周囲の大人たちはこう言ったそうです。

「圭は子どもだから夢が大きいね。素晴らしいことだ。でも、現実は日本のテニスはグランドスラムを獲得するなんて100年経っても無理なんだよ。だから、そんなことを言わないで、日本のトーナメントを戦って、スポットで参戦すればいいじゃないか」

圭君は思いました。なぜ自分は日本に生まれてしまったんだろう。アメリカやヨーロッパやアフリカや南米の選手に生まれていたら、自分の体ひとつで世界と戦えたのに。日本人であるために自分は戦えないのか、と。

そう嘆いていたとき、一人の救世主が現れました。それが、盛田正明テニスファンド(MMTF)の盛田正明氏です。

正明氏は、ソニーの創業者である盛田昭夫氏の実弟です。世界に羽ばたくソニーをつくり上げた、昭夫氏と盟友である井深大氏、そして、この2人を見ていた正明氏のモットーが「不可能を可能にする強靭な意志と想像力」だったんです。焦土と化した戦後の日本。もう一度世界ナンバーワンになろうと、ものづくりを突き詰めた3人。その思いが込められた言葉でした。

MMTFの奨学金でフロリダにあるIMGアカデミーに留学し、圭君は、ATPランキングツアーで戦い、グランドスラムを獲得し、USオープンではセンターコートに立つまで上り詰めました。

圭君は、テニスで戦いながら、ソニーの企業魂を表現していたんですね。

水泳:トビウオジャパンの場合

「他者のために力を尽くす」

この素晴らしさを強く感じさせてくれたのは、トビウオジャパンの4選手、松田丈志(まつだ たけし)選手、北島康介(きたじま こうすけ)選手、藤井拓郎(ふじい たくろう)選手、入江陵介(いりえ りょうすけ)選手です。

ロンドンオリンピック・競泳男子400mメドレーリレーでとてつもない日本新記録をたたき出し、銀メダルを獲得しました。

康介さんは過去の実績もあり、ロンドンオリンピックでメダルを2つは獲るだろうといわれていましたが、ロンドンに行くとまったく調子が上がらない。決勝にも進めないという状況だったんです。康介さんは、涙を浮かべて、みんなに頭を下げました。自分がみんなを引っ張らないといけないのに、と。英雄のその姿に、キャプテンだった丈志君は衝撃を受けました。

そして、レースの前夜、陵介君と拓郎君を選手村の部屋に呼んで、こう言いました。

「どうか聞いてほしい。明日のレース、何としてでも勝たなければならない。康介さんを手ぶらで日本に帰すわけにはいかないんだ。あの人をメダリストにして日本に帰ろう」

丈志君は帰国してすぐ、私のインタビューを受けてくれて、こう言いました。

「オリンピックは、自分だけのものだといつも思っていました。メダルを獲得したあの歓喜は、自分だけのものなんだと、心の内で思っていました。けれども、自分は本当に愚かでした。北島康介のためだけに泳いだあのレース、自分は思ってもいない記録を出すことができました。1秒たりとも自分のことを考えませんでした。手足が千切れてもいいから、北島康介のために、0.001秒、速く泳ぎたいと思っていました。陵介も、拓郎も、同じでした。すると、信じられない記録が生まれました。そして、私たちは銀メダルを獲得できたんです」

実は、北島康介も同じ思いでした。自分の不甲斐なさに涙を流して謝り、そしてそこからは3人のためだけにトレーニングをし、このレースを迎えたのです。自分が足を引っ張って、メダルを獲る機会を失ったら、一生、後悔が残る。この若い3人のために、もう二度と泳げなくなってもいいと思い、3人のことだけを思っていました。すると、康介さんもまた、ベスト記録をたたき出すんですよね。

他者のために力を尽くす瞬間にこそ、自分の限界を超えることができる。そう丈志君は言いました。それを後輩たちに必ず伝えますと言っていました。

男子陸上:朝原宣治氏の場合

北京オリンピック・陸上男子4×100mリレーで銀メダルを獲得した朝原宣治(あさはら のぶはる)さん。

彼が常に自らの心に刻み、若い選手たちにも伝えていることは、

「心身ともに充実すべく周到な準備が必要である」

一縷(いちる)の隙もなく、周到な準備ができている状況こそ、アスリートに必要であると言ったんですね。

北京オリンピックでメダルを獲得できた陰には、1回2回の成功だけに満足するような努力ではありませんでした。100回、1000回、1万回繰り返し、あと10万回やっても同じポテンシャルで記録を出せる。それくらい技術を磨いて、レースに挑みました。

その最たるものが、バトンパスです。日本陸上のバトンパスは世界一です。

ほとんどの国は、バトンを上から渡すオーバーパスですが、日本は確実に受け取れるように、下から渡すアンダーパスです。ですが、アンダーパスはリスクが大きい。なぜなら、選手同士が接近するので、接触したり、バトンを渡す区間から出てしまう危険があるからです。だから、他の国の選手はアンダーパスを選びません。

ですが、日本は0.001秒を稼ぐためにアンダーパスを選びました。その練習を重ね、10万回やっても失敗しない技術を手に入れたのです。

こうした陰の準備をし、みんなが求めるものを提供できる。そして笑顔で高らかに声援に応えられるような人になりたいと、私自身も思います。

日本パラリンピック委員会 委員長・元パラリンピックスイマー:河合純一氏の場合

パラリンピック水泳の世界では知らない人がいない、河合純一(かわい じゅんいち)さん。17歳のときにバルセロナ大会(1992年)に出場してから、なんとロンドン大会(2012年)までずっと出場し続けました。メダルは合計21個、そのうち金メダルは5個です。本当に素晴らしいパラリンピックスイマーです。

河合さんは、生まれたときから左目の視力がありませんでした。残っていた右目の視力を頼りに勉強もスポーツも頑張り、5歳から水泳を始めました。

ところが、15歳のときに、大きな人生の転機がやってきます。右目の視力も奪われてしまうんですね。全盲になった彼は、2つのことを思いました。

なぜ、生まれたときから全盲ではなかったのだろうか。そうだったら、日常生活訓練を受けたり、点字の読み方、白杖を使っての歩き方などを身につけられたのに、と。しかし、右目の視力があったため、彼はそれらを学んでいませんでした。部屋から一歩も動くことができないばかりか、入浴や食事も一人でできなかったのです。

そして、もう一つ思ったことは、こんな自分は生きている価値はない、ということ。生きる気力を失い、自らの命を絶つことを考えても、見えないがために自分一人でそれを実行することすらできない。

そのことに絶望していたある日、河合さんのお母さんがこう話す声が聞こえてきたそうです。

「あの子がそんなにつらいなら、一緒に死んであげようと思う」

この言葉を聞いて、河合さんは奮い立ちました。自分の人生を変えるしかない。全盲になった自分は、その先の人生を全盲として生きていくしかない。そのためには、どうすればいいか。

そこで、たった一人で、筑波大学附属視覚特別支援学校に入学するんです。単身寮生活を送りながら、生活のすべて、点字を勉強します。そのとき、河合さんはこう思いました。

「人間は可能性の塊なんだ。自分にはこんなポテンシャルがある」

すべてができるようになり、目が見えないことを忘れていたそうです。

やがて水泳の練習も再開し、パラリンピックの代表になりました。

その河合さんは、2020年1月1日に、日本パラリンピック委員会の委員長に就任しました。

このニュースに、トヨタ自動車・代表取締役社長の豊田章男氏が、「これでようやく、日本も海外のパラリンピックと肩を並べられるね」とおっしゃいました。

なぜなら、河合委員長以前は、健常者が委員長を務めていたんです。これは、先進国においては日本だけでした。

河合さんはこう言います。

「人々のもっている可能性に出会う場として、パラリンピックは非常に価値がある」

オリンピックはアスリートたちが磨いてきた技、肉体を示す機会です。けれども、パラリンピックは人間の根源の可能性を示す舞台なのだ、と。だからどうか、パラリンピックを見たことがない人たちも、人間の可能性が示される瞬間を観て、声援を送ってくださいと、河合さんは言っていました。

河合さんはこうも言っていました。

「僕は全盲になって本当に良かったと思っています。人間の可能性を、健常者よりもさらに強く、自己の体験として伝えることができる。全盲になった自分の役割だと思っています」


アスリートたちの思いと、そこにあるドラマをご紹介しました。皆さんの心の片隅にとどめ置いていただき、自らが苦しくなったとき、誰かが悲しんでいるとき、勇気の小さなエッセンスとして、どうか時折、引き出して、光にしていただけたら嬉しいと思っています。

左から、株式会社MITOS 代表取締役社長 水戸脩平氏、ノンフィクション作家 小松成美氏、株式会社Legame Gruppo 代表取締役 内村 淳氏

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vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
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