小松成美が迫る頂上の彼方
登山家
栗城史多
2017.05.19
登山家 栗城史多
1982年北海道生まれ。大学山岳部に入部してから登山を始め、6大陸の最高峰を登る。その後、8000m峰4座を単独・無酸素登頂。エベレストには登山隊の多い春ではなく、気象条件の厳しい秋に6度挑戦。見えない山を登る全ての人達と、冒険を共有するインターネット生中継登山を行う。2012年秋のエベレスト西稜で両手・両足・鼻が凍傷になり、手の指9本の大部分を失うも、2014年7月にはブロードピーク8,047mに単独・無酸素で登頂し、見事復帰を果たした。これからも、単独・無酸素エベレスト登頂と「冒険の共有」生中継登山への挑戦は続く。
その活動が口コミで広がり、人材育成を目的とした講演や、ストレス対策講演を企業や学校にて行っている。
近著『弱者の勇気 -小さな勇気を積み重ねることで世界は変わる-』(学研パブリッシング)。
小松 世の中に蔓延する「否定の壁」をなくしたい、取り払いたいと考えていた栗城さんの前に現れたのは、日本テレビの土屋敏男さんという『進め!電波少年』のプロデューサー。土屋さん、無謀な香りがしますね。
栗城 はい、まさに(笑)。その土屋さんから「標高8201メートルのヒマラヤからインターネットで動画配信をしてみないか」という話をいただいたんです。
小松 インターネット生中継は、名物プロデューサーの発案だったのですか。8000メートルからのライブ動画って、すごい発想ですね。
栗城 本当に度肝を抜かれました。2007年当時は、まだフェイスブックもないし、ユーチューブもまだ特定の人たちだけのメディアで、世の中が「インターネットで何ができるんだろう」と、ようやく模索しはじめた時期だったんですね。土屋さんはいち早くインターネットと動画に目をつけて、ヒマラヤへ登る僕にその企画を投げてきたわけです。
小松 栗城さんはそのテレビ番組の企画を受けたんですね。
栗城 もちろん驚いて、二の足も踏んだのですが、閃きもあったんですよ。
小松 どのような?
栗城 冒険の世界というのは非常に伝えにくいものだと感じていたので、それが動画配信ならできるかもしれない、と思ったんです。登山は、帰ってきてからの証言か写真か後追いのビデオ映像でしか伝えられません。今、自分がある状況をライブで伝えられたらそれは凄いな、と思いました。
小松 「冒険の共有」のスタートですね。
栗城 はい、でもタイトルに問題があったんです。深夜番組だったんですけど『ニートのアルピニスト栗城史多 はじめてのヒマラヤ チョ・オユー8201m単独で挑戦』とつけられたんです(笑)。
小松 ニートのアルピニストですか!?
栗城 実は、高校卒業してから本当にニートだった時期が半年間だけあったんです。2007年当時はすでにニートではなかったんですけど、ニートだった時期が実際あるから「まぁいいか」とそのタイトルで放送をはじめたら、ものずごい現象が起きました。
小松 どのような?
栗城 全国にいる本物のニートの方々からたくさんの誹謗中傷コメントが来たんです。「ニートは頑張らない」とか(笑)。
小松 頑張ってヒマラヤ登ったらニートじゃない、と?
栗城 そうですね。加えて「栗城は登れない」「できるはずない」という否定コメントがたくさん来ていて、僕は、動画を配信してはそのメッセージを読み、登っていったんです。
小松 落ち込みませんでしたか?
栗城 落ち込みませんでしたが、すごいことになっているなぁ、と驚いていました。本当にたくさんコメントが来ていましたから。結局、その挑戦は頂上近くでホワイトアウトに阻まれてしまいました。辺り一面真っ白で何も見えなくなり、一歩も進めなくなって下山しました。
小松 ニートさんたちからのコメントは?
栗城 それはもう大変でした。「栗城はやっぱり登れなかった」「死んじゃえ」とかメッセージがたくさん来ていました。その悔しさをバネに「もう一回行きます!」と宣言して、数日後にまた登頂に挑み、その時には登れたんですよ。そうしたら、思いもよらないうれしいことが待っていました。下山後にパソコンを見ると、「栗城は登れない」「死んじゃえ」とか書いていた人から「ありがとう」と一言だけ書いてあったんですよ。僕は山を登っていて人から「ありがとう」って言われたことがそれまでになかったんです。「登頂おめでとう」とか「頑張ったね」とか、そういう言葉はたくさんかけてもらいますが、「ありがとう」は初めてでした。
小松 そのニートさんからの「ありがとう」は、胸に刺さりましたか?
栗城 はい。その言葉をもらった時に、ずっと攻撃的な言葉を書いていた彼が、なぜ「ありがとう」と書いてくれたんだろう、と考えました。そして、彼らもいろんなことを書き込みながら、決して負の気持ちだけを抱いているわけじゃないんだ、と気付いたんです。みんな自分自身の中に山をもっていて、頂上を目指しながら登っている。でも、時には下山することもあるんですよね。その時にお互い励ましあったり、感謝しあったりできたら素晴らしい。心の山を登り、時に失敗することを否定しないような社会ができたら、僕はそれはとても大きな意味があるなと痛感したんです。そのために配信を続けよう、と。
小松 ヒマラヤからのライブ映像の配信がもたらした「出会い」ですね。
栗城 とても大きな出会いです。だから、土屋さんに「次はエベレストで生中継をやりましょう」と提案しました。すると「一回だけで十分、もうやらない」と、フラれて、それで自分でやることになったんです。そこからいろんな制作会社や機材の会社に自ら相談しながら、資金を集めるために自分で企画書を作り協賛を得るための営業もするようになりました。
小松 大変な金額ですね。実際にエベレストを登るだけの費用なら、いくらくらいですか?
栗城 300万から350万円くらいです。
小松 でも、中継するためにはその十倍以上の資金が。
栗城 5000万円くらいかかるんですよ。配信のための衛星回線の使用料が高いんです。それに配信のための機材や人件費など、です。昔はもっと高かったですけど、今はそれでもだいぶ安くなりました。
小松 そこまで経費をかけても冒険の共有をしたかった。栗城さんは今、何を伝えたいと思っていますか?
栗城 失敗や挫折も含めてすべてを伝えたいです。エベレストに登ったと報告するだけではなく、登頂までの一部始終を見せて、本当のチャンレンジは失敗と挫折の連続ということを知って欲しいと思いました。世の中には、失敗は嫌だ、いかに失敗を避ければ良いか、と考えている人もたくさんいます。でも僕は「そんなことないよ、失敗こそ自分を強くするし、次の目標への原動力になる」と言いたいんです。僕の挫折や失敗をもライブ映像で共有しながら、みんなが自分自身の山の頂上を目指してくれたらいいな、と思っていますね。
小松 栗城さんが共有してくれる映像を見ていると、何よりもあの場所に立ち続けている栗城さんに感激します。
栗城 ありがとうございます。僕は、死が身近にある、滑ったら終わりだ、みたいな感覚って、今の現代社会においても重要だと思っているんです。野生の世界では動物って常に空腹だし、死と隣り合わせなんです。でも逆にだからこそ、生きようとする力が出てくると思います。人間ってどうしても安全な方、快適な方を目指すことで、生きる力が出て来なくなっちゃうんです。
小松 本当ですね。
栗城 僕はよく「なんであんな危険なことやるんですか?」と言われるんですが、逆にエベレストが確実に登れて安全に行って帰って来られる場所だったら、誰も行きませんよね。どんな瞬間も生死を意識する山です。死は、悲しいことではありますが、死を意識することで、生きているんだっていう感覚をもつことができる。また自分の死を思うことで、自身が生きている間に何ができるのか? と現在の自分と正面から向き合えると思うんですよね。安全ばかりを意識していると、逆に生きる力が失われてしまうと思います。テクノロジーが進化し便利になりながらも、いかに野性的なものを残していくか。それも僕の大切なテーマです。
小松 野生の勘や直感、つまり第六感を、栗城さんも使っていますか?
栗城 う~ん、どうでしょう。でも一流の先輩方の直観力はやっぱりすごいですね。早い段階で下山の判断ができてしまうんです。一番すごい人たちは、ベースキャンプという登山のスタート地点で山を見て「今回はやめよう」と、判断するんですよ。僕らみたいにある程度行って下山の判断を決めているのはまだまだ甘ちゃんということです。
小松 これからアタックしようという時に?
栗城 ええ。ベースキャンプで山を見て、今回は危険が大き過ぎる、と言ってやめるんですよね。半年間も準備して来て、そこでやめることができる直観力って本当に神がかっていると思います。
小松 栗城さんもそうした感覚をもっていますよね。
僕の挫折や失敗をもライブ映像で共有しながら、みんなが自分自身の山の頂上を目指してくれたらいいな、と思っていますね(栗城)
栗城 2012年の春、シシャパンマの南西壁を登った時には、確かに感じました。標高8027メートルの山で、1600メートルくらいから氷の壁のようなところを登ります。それで、僕は6500メートル地点から30メートル滑落してクレパスに落ちて骨折するんですけど、落ち方が良かったんで助かったんです。その時には予兆というか、前兆というか、いくつもサインがあったんですよ。
小松 サインとは?
栗城 ベースキャンプを出発して5分も経たないうち足を捻挫したんですよ。それまでは、山で捻挫ってしたことないんですよね。さらに、その1カ月くらい前から不眠症になって、ずっと不調でした。でも、やっぱり行きたいっていう気持ちが強くて、それがあっても無理やり行ってしまったんです。でも周りの仲間が「今回ちょっと栗城様子おかしくない?」って言ってくれていました。僕自身も何かがいつもと違うと感じていました。それに気づけるかどうかが、すごく大切なんですね。本当に命を賭して登って行く瞬間には引き際が大事ということです。
小松 その後は、サインを見逃さないように細心の注意を払っていますか?
栗城 はい。
小松 生きて帰り、チャレンジし続けることが栗城さんの目標ですものね。
栗城 大切にしたいのは、そこなんです。次のチャレンジをするっていうことが大切です。よく山で亡くなったら本望だって言う話がありますが、僕はやっぱり生きて帰り、冒険を伝えていきたいですから。
小松 冒険を共有するための単独の登山。栗城さんはその時、寂しいと感じることはありませんか?
栗城 もちろんありますね。
小松 その寂しさをどう受け入れていますか?
栗城 単独で登っていく僕にとって、孤独は驚怖心と対です。孤独を受け止めているってことは恐怖を覚えているということで、登山にとっては必然なんですね。だから僕は、自分の心が孤独とか寂しいって感じていることが好きなんです。むしろ、それを求めています。逆に孤独という感情が全てなくなった時は、怖いですね。冒険において、恐怖心を失ったら危ないんですよ。慢心が襲ってきて、命を落とすことにつながります。
小松 孤独を抱え、恐怖や不安を抱きながら登る。
栗城 いかに自分と対話しながら折り合いをつけていくかということです。それは、成長している状態だし、自分の心にある壁を超えている瞬間なんですよね。
小松 7度目のエベレスト登頂を前にした栗城さんに改めて伺います。人間をはねつけ、決して寛大に迎え入れてくれない場所に一歩を踏み出す時って率直にどのような気持ちなんでしょうか?
栗城 天命だと思っています。山を感じながら、一人で登ることが僕の天命なのだ、と。僕は天命こそすごく大切なことだと思っているんです。やっぱり木で例えたら天命は根っこ。大地に根を張って育ち、枝葉が伸びて最終的にはその人なりの花が咲く。その花が、夢だと思うんです。
小松 木々が育ち、花をつけるまでには嵐や大雪にも見舞われますね。
栗城 はい、それに耐えてこそ強い幹ができ花を咲かせることができる。困難や失敗、挫折っていうのは、自分を強くしてくれる豊かな贈り物です。僕自身はそう考えているんですよ。
小松成美(こまつなるみ) ノンフィクション作家。神奈川県横浜市生まれ。専門学校で広告を学び、1982年毎日広告社へ入社。その後放送局勤務など経て、1989年より執筆活動を開始し、スポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多ジャンルで活躍。堅実な取材による情熱的な文章にファンも多い。代表作に『中田英寿 鼓動』『勘三郎、荒ぶる』『熱狂宣言』(すべて幻冬舎)『それってキセキ』(KADOKAWA)など。
vol.56
DXに本気 カギは共創と人材育成
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
代表取締役社長
井上裕美