小松成美が迫る頂上の彼方

第一部

50歳現役を叶えた運命の出会いと 崖っぷちで掴んだ最強の武器

元中日ドラゴンズ

山本 昌

写真/芹澤裕介 | 2017.06.12

ノンフィクション作家・小松成美がアスリートに迫る連載。第3回は50歳現役という前人未到の大記録を打ち立てた、球界のレジェンド山本昌氏が登場。甲子園に出場したこともなくドラフト5位での入団。その後4年間も勝ち星がなく、いつクビになってもおかしくないという状況から這い上がり、200勝達成したほか数々の記録を打ち立て、プロ野球史上誰よりも現役を続けた山本氏。そこには、どのような戦いの日々があり、どんなターニングポイントがあったのか?

元中日ドラゴンズ  山本 昌(やまもとまさ)

1965年8月11日生まれ。左投げ左打ち。日大藤沢高校卒業後、1984年にドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。初勝利は入団5年目の1988年。以後現役32年間で、最多勝3回、沢村賞1回など数多くのタイトルを獲得。2006年には最年長記録となる41歳4か月でノーヒットノーランを達成。2008年には史上24人目となる200勝を達成し、2012年にはチーム最多勝利記録を更新。さらに、2014年には最年長勝利記録を更新するなど、晩年には数々の最年長記録を更新し、前人未到の50歳現役を実現。2015年に現役引退。通算成績は219勝165敗5セーブ。最新刊スカイマーク会長の佐山展生さんとの共同著書『生涯現役論』(新潮社)が絶賛発売中。

小松 2016年3月5日の引退試合をもって現役を離れた山本さんですが、日常はいかがですか?穏やかですか?

山本 穏やかとは逆ですね。今は、初めての仕事が日々多いでしょ。ゲームの解説など、野球に携わる事はある程度手順も内容も分かっていて対応できるのですが、こうした取材や講演などは、経験も浅く、どうしていいか分からないことも多い。実をいうと、現役をやっている方が楽でしたね。

小松 本当に?

山本 現役の時は肉体的にはきついですけれど、やることは決まっていましたから。なにをどうすればいいか、すべてわかっていましたからね。迷ったり、悩んだりすることはまったくなかった。そう言う意味で現役時代の方が楽でした。今は緊張もするし、考えることが多くて疲れます(笑)。

小松 ある意味、新人ですね。では徐々にペースをつくっている感じですか?

山本 そうですね、もう少ししたらペース作っていこうかなと。とにかく日々どういう仕事がくるかわかりませんので、経験を積むしかないと思っています。

小松 毎日がチャレンジ。

山本 はい、日々チャレンジです。現役時代というのは自分の調子さえあげていってチームが勝てばいいわけですよね。体きついといっても慣れてしまえばそれが当たり前。野球だけに集中した生活でした。まあ、今は第二の人生ですよね。自分に何ができるのか、探しながら過ごしているところです。

小松 第二の人生とおっしゃいましたけれど、山本さんが目を閉じて最初の人生、つまり現役時代を思い起こしたとき、どんな場面が第一に浮かび上がりますか?

山本 ひとつの場面ではないですね。目を閉じて思い起こすとそこにはマウンドからの光景が見えて、野球という素晴らしい世界が広がっている。自分のことながら、あんなすごい世界に32年間もいたんだな、と胸が熱くなります。今現役でやっている選手は、掛け替えのないところにいてプレーしているのだと自覚してほしいなと思います。これは辞めてから気づくわけですけれど。つくづく良い思いをさせてもらったな、特別な世界にいたんだなと思いますよね。悔いなく一生懸命頑張ってきましたけどね。でも、本当はもっともっとやりたかったです。

小松 本当は今シーズンも現役で投げていたかった?

山本 はい。今日も、思いますよ、あの世界にもう一回戻りたい、と。マウンドに立たないことが寂しいな、と。体がやっぱり当然若い頃とは違いますので、先発完投とは行かないでしょうが、50代のピッチャーという現実と向き合いながらやっていたかったなと思います。私は50歳までやらせてもらった。おそらく日本で一番長くプレーした選手だと思います。辞める時「世界で一番幸せなプロ野球選手です」と言ってやめましたけど、それでもまだやりたいなと思います。野球とは、それほどすばらしいスポーツなんだと思います。

小松 イチローさんは、昨年メジャー3000本安打を達成したとき、山本さんと「50歳までやるにはどうしたらいいですか?」と会話したエピソードを記者に披露したそうですね。

山本 そうらしいですね。2015年9月、僕がシーズン終了後の引退を決めてそれが報じられると、光栄なことにイチロー君から電話がかかってきたんです。

小松 イチローさんから山本さんへの労いの国際電話ですね。

山本 その時に、イチロー君が「昌さん、僕は、50歳までできますかね?」と言ったんですよ。僕は、こう言いました。肩や肘は体の使い方で痛めないようにもできる。でも、足を痛めると筋力が落ちて走れなくなり、プレーに影響する。だから足の怪我にだけ気をつけて、と。たまたま電話をいただいたんですけど彼は僕なんかより素晴らしい選手でありますしね、本人はすごく意欲もっていますので、ぜひ50歳まで本当にプレーしてほしいと思います。

小松 私も20代のイチローさんに5年間密着取材して本を書かせていただいたのですが、その頃から、「僕は絶対監督には向きません。ずっと現役でいたいです。50歳までやります」と話していました。

山本 ああ、そうですか。その当時から彼は50歳を目標にやっていたんですね。

小松 山本さんはどうでしたか? 50歳現役投手は、何時の頃からの目標でしたか?

山本 僕は40歳超えた時から、1年、1年、と思いながらやっていました。それがだんだん伸びて50歳になりました。周りの方の励ましで寿命が延びましたね。30代後半になったら40歳まで頑張ってくださいって沢山励ましていただいて40歳超えたら1年でも長く頑張ってください、45歳まで頑張れと、声をかけてもらいました。それが45歳超えたらね、50歳まで頑張ってと言われたんです。一気に5年飛んで50歳かと、最初は気が遠くなりましたが、ファンの方の声援で心を強くできました。本当に50歳が見えたのが48歳くらいですね、「あー。これだけ応援してもらっているんだから、50歳までやらなきゃいけないな」と思いました。

小松 本人が現役でいたくてもプロ野球選手には契約という現実がありますね。

山本 そうです。実際契約してくれるか、くれないかは球団主導になりますので、自分では如何ともし難いのですが、45歳を過ぎてからは球界最年長記録もあってか球団からも手厚く扱ってもらったなと感謝しています。

小松 山本さんは中日ドラゴンズの生え抜き選手。フリーエージェントの権利を1度も使いませんでしたね。

山本 はい、フリーエージェントの権利は選手に与えられたものですから、行使して当然ですが、僕は1度も使おうとは思いませんでした。僕の考えには合いませんでしたね。新たな環境や人間関係を求めてフリーエージェントを使う選手がいて当たり前ですが、僕はせっかくコツコツと作り上げてきたものを手放すつもりはありませんでした。ドラゴンズが好きでしたし、ここが自分の生きる場所だと信じられました。僕が最も大切にしているのは、日常、そしてそこにある習慣です。自分が決めたことを習慣とする。だからこその生涯一球団という選択。それが結果として50歳現役につながったと思います。18歳から50歳までひとつの球団でプレーできたということは、僕自身非常に嬉しく思いますね。

 

“島流し”とさえ思った
アメリカ留学が人生の転機

小松 ぶれずにひとつの場所で打ち込んだ山本さん。その32年のプロ野球生活は一言で言えば「金字塔」です。その誰も昇り得ない塔を創り上げたステップを聞かせてください。山本さんご自身、中日入団後最も大きな転機としてプロ4年目のアメリカ行きを上げていますね。入団して4年目、21歳の時にロサンゼルス・ドジャースでプレーした日々があって、今がありますか。

山本 はい、その通りです。あのアメリカでの経験と出会いがなければ、僕のその後の野球人生はあり得ません。1988年2月、当時、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行ったんです。そこで、僕を含め、若手選手5人が“野球交換留学生”という名目でそのままアメリカに残されることになりました。当時の僕は、プロ入り後1軍で投げたのは4試合、勝ち星はゼロでした。

小松 アメリカ留学は嬉しかった?

山本 いや、その反対です。最悪でした。「ベロビーチキャンプで頑張って今シーズンこそ1軍だ」と意気込んでいたのに、その地に残された。交換留学と言ってもメジャーを目指すための機会ではなく、ドジャースとの交流関係を担保するための選手。言わば“島流し”でしたよ。事実、チームで戦力にならない選手5人が選ばれましたからね。

小松 山本さんをアメリカに残したのは、当時監督だった星野仙一さんですね。

山本 そうです。後に星野さんからは「あの時、俺は昌をアメリカに捨てたんや」と言われました。笑って、冗談ぽくですが。でも、そう言われても仕方ない選手でしたよ。冴えない左投手。ストレートは130キロぐらいしか出ていなかったと思います。「なんでこんな選手がプロになれたんだ」と、球団のほとんどの人たちは、思っていたんじゃないでしょうか。

小松 星野監督以下当時の首脳陣が、アメリカでなら日本人離れした体格(身長186センチ)、長い手足を活かす指導をしてくれるかもしれないと期待した、という話しも聞こえていますよ。だからこその留学だった、と。

山本 今となってはそうした親心あっての“留学”だったかもしれませんが、あの時にはそうしたことは想像するはずもなく、ただ目の前が真っ暗でした。言うなれば戦力外通告を受けたわけですからね。5年目で芽が出なければ間違いなく自由契約だと分かっていましたから、何とか1軍に上がろうと必死だったにも関わらず、開幕前にアメリカへ置いてきぼり。「ああ、俺もこれで終わりだ」と思い、日本に戻るチームメートを見送ったときには、涙が流れましたよ。

「ああ、俺もこれで終わりだ」と思い、涙が流れました

小松 切ない場面ですね。アメリカに残った山本さんは、メジャーのドジャースではなく、傘下のマイナーリーグ、1Aベロビーチ・ドジャースに所属することになりますね。

山本 1Aベロビーチ・ドジャースのチームメートに帯同してフロリダ・ステートリーグでのゲームに出場することになりました。ドジャース傘下と言っても1Aはプロ4軍みたいな位置です。それに、あの頃は今とまったく状況が異なっていて、メジャーリーグ移籍への道があるわけでもなく、また自分にもそんな気持ちは微塵もなく、ただ「なんでこんなところでプレーしているんだよ、俺は」と情けなくて、ため息ばかりついていたんです。秘境に置いていかれるような感じでしたね。西海岸ならまだしもフロリダなんて自分にとっては“地球の裏側”でしたから。もう閉じ込められたという思いはありましたね。

小松 けれど、ここで運命の出会いが待っていた。

山本 はい、そこでアイク生原さんに出会いました。アイクさんとの邂逅が、僕の人生を大きく反転させてくれました。

小松 その時、アイク生原さんは、ドジャースのオーナーであるピーター・オマリーさんの補佐兼国際担当。福岡県出身で、早稲田大学野球部で活躍した後、亜細亜大学野球部監督を経てアメリカに渡り、巨人や中日のベロビーチキャンプのコーディネイトをしたり、野球留学生の面倒を見たりして、絶大な信頼を得ていた方ですね。その方が、山本さんの世話人としてついてくれた。

山本 アメリカに島流しになって、落ち込んで、自暴自棄になっていた僕に野球に打ち込むことを教えてくれた方です。荒んでいた心にアイクさんの言葉だけを刻みました。これは僕の性格なんですが、「よし、この人だ!」と思ったら、のめり込んで信じ、付いていく。今振り返れば、「付いて行く人を間違えなかったよな、俺」という自負はあります(笑)。

小松 アイクさんは山本さんに何を授けてくれましたか。

山本 野球に関してはとてもシンプルなことでした。「初球でストライクを取れ」「低めに投げろ」「ボールは前でリリースしろ」「上から投げろ」などです。あと「ヤマ、缶ビールは2本までだ」と、良く言っていました(笑)。

小松 ピッチャーにとっての基本ですね。

山本 そうなんです。プロで勝ち星のなかった僕はそうした基本を大切にすることを忘れていました。アイクさんからは技術だけでなく、マウンドで強い心を持つことの大切さを教え込まれました。ある試合、僕は同点の延長10回から登板させられたんです。14回までなんとか無失点で投げたのですが、15回にはランナーを出して無死満塁に。苦しかった僕は、「ああ、次の一球でサヨナラ負けか」と、そのゲームを諦めたんです。すると、通訳としてベンチ入りしていたアイクさんがピッチングコーチとともにマウンドに駆けてきたんです。アイクさんの顔を見た僕は「すいません」と、情けない顔で頭を下げました。すると、アイクさんの太い声がした。「ヤマ、何を言っているんだ!まだ終わったわけじゃないぞ!」と。その声を聞いて、僕は目が覚めました。集中力を取り戻し、その回をなんとか無失点で切り抜けるんです。その後、18回まで無失点を続け、試合はサスペンデッド(引き分け)になりました。あのゲームを無失点で投げ抜いた記憶は、僕の信条でもある「諦めなければ道は開ける」という教訓になるんですよ。そして、1軍で投げるようになった後も、苦しい局面で「諦めるものか」と胸の奥で呟きました。その度に、耳の奥でアイクさんの「ヤマ、まだ終わったわけじゃないぞ!」と言う声が聞こえましたね。

小松 どんな場面でも諦めず、粘り強く勝利を求める中日のエース・山本昌の誕生ですね。ここに原点がある。

 

人生を劇的に変えた
たった1つの武器

山本 20代の頃でも50歳になったシーズンも、思いは同じでした。絶対にあきらめない心を持つことが、プロにとって一番大事なことです。

小松 このアメリカで山本さんは、自らの最大の武器であるスクリューボールを身につけるんですよね。

山本 スクリューボールをマスターするようにアドバイスしてくれたのもアイクさんです。ベロビーチでのスプリングトレーニングに参加して1ヶ月ほど経った頃、アイクさんに連れられて、当時のドジャースのエースだったフェルナンド・バレンズエラの投球練習をブルペンで見ていました。バレンズエラのスクリューボールはそれは素晴らしく、大きくそして鋭く曲がります。まるで漫画に登場する魔球のようでした。アイクさんはバレンズエラのピッチングを見ながら「ヤマがのこ変化球をマスターすれば、凄いピッチャーになれるぞ!」と、言ってスクリューボールを覚えることを勧めてくれたんです。

小松 魔球の会得。なんだか、期待に胸膨らみますね。

山本 いやいや、実はスクリューボールは「最後の一手」でした。キャンプに入って、アイクさんをキャッチャーにしてカーブ、スライダー、チェンジアップと投球練習を重ねて行くのですが、どれも「決め球」になるようなレベルに届かない。ストレートが130キロと遅い僕に取っては、変化球を持たなければ、プロとしての活路はない。「自分の武器を持て」と僕に言い続けたアイクさんは、ついにスクリューボールを会得することを提案したんです。

小松 あのバレンズエラにレッスンを受けたんですか?

山本 いいえ、メジャー屈指の左腕、超エースのバレンズエラに気軽に「教えて」とは言えませんよ。

小松 ええっ、そうなんですか?

山本 スクリューボールは真似して覚えた感じです。真似たのは、1Aのチームメートでした。メキシコ人ジョゼフ・スパニュオーロが、キャッチボールしながらシンカーやスクリューボールを投げていたんですよ。その投げ方を見ながら、自分も「こんな感じかな」とキャッチボールで投げてみた。すると、驚くほど曲がったんです。さっそく、その日のゲームでシンカーとスクリューボールを投げてみることにしました。試合が始まる時には、キャッチャーから「ヤマ、また打たれんじゃねぇぞ」と野次られましたが、僕は頭に来ることもありませんでした。何か確信めいたものがあって、思わず「変化球一つ覚えたから」と言っていました。その言葉通り、たいして練習もしていないスクリューボールを披露したんです。

小松 すると?

山本 瞬く間に三振の山です。引退の崖っぷちに立っていた0勝ピッチャーの僕が生まれ変わった瞬間でした。

小松 ドラマチックですね。

山本「俺のウイニングショットはこの球だ」と言い切れるスクリューボールを手にした僕は、揺るがない自信を持てるようになっていく。リーグでの快進撃は止まらず、1Aのオールスター戦にも選出され出場したんですよ。

小松 わー、凄い。 アイクさんも喜ばれたでしょうね。

山本 ええ。でも、少しでも気を抜くと「ヤマ!」と怒鳴られました。アイクさんに見守られながらスクリューボールを投げ、勝ち星を挙げていくと、なんとメジャーの2球団から契約のオファーが来るんです。

小松 1988年と言えば、野茂英雄選手がドジャースに入団する7年も前のことですね。

「絶望の島流し」が人生最大のターニングポイント

山本 そのシーズン中、先発の駒が足りない球団から呼び戻されました。メジャーとの契約より。もちろん中日ドラゴンズで投げることを一番に望みましたから、嬉しかったですね。

小松 シンカー、スクリューボールは日本でも有効でしたか?

山本 はい。帰国して5勝を上げます。敗戦は0、自責点も0という自分でも信じられない成績を残せました。スクリューボールを投げるようになってから、ストレートのスピードも増したんです。135キロは出せるようになりました。それに、アイクさんからはID野球も習うんですよ。ストライクゾーンを9分割にしたチャートを使いながら、バッターそれぞれのバッティングを分析するんです。90年代にヤクルトの野村克也監督が提唱し古田敦也選手が中心になって駆使したID野球を、僕は帰国した1988年から取り入れ戦っていました。

小松 山本さんは、ストレート、シンカー、そして武器であるスクリューボールを投げ分け、中日ドラゴンズのエースに昇格します。やがて、日本球界の伝説への階段を駆け上がっていく。最多勝3回、最優秀防御率、沢村賞の栄誉に輝き、219勝を達成します。けれど、この素晴らしい栄光の数々のスタートは、引退勧告の布石であったかも知れない「島流し」というアメリカ1Aでの日々にあり、そこでは、無名の山本さんにまるで家族のような愛情を持って接し伴走してくださったアイク生原さんとの出会いがあったのですね。

山本 あの時にアメリカへ行かなければ、そしてアイクさんに出会わなければ、その後の投手人生はありません。あの屈辱、焦燥、孤独を抱きながら、アイクさんの教えに食らいつき、投げた時間が僕の土台を作っています。僕の数々の戦績は、アイクさんとともに作ったものです。神様から最高のタイミングを与えてもらいました。僕は知っていますよ、自分がどれほど運の良い人間かということを。

小松 アイク生原さんは1997年に55歳の若さで亡くなってしまわれたんですね。

山本 本当に残念でした。アイクさんはロサンゼルス郊外にあるオマリー家代々の墓の隣にあるお墓に眠っていて、アメリカへ行くたびに参っています。

小松 それにしても、山本さんにとって「絶望の島流し」が、実は人生最大のターニングポイントだったんですね。

山本 そうなんですよ。今、この瞬間にどん底だと思っても、その時間と経験は未来へつながっているのですから逃げられません。つまり、どんな状況になっても、今を懸命に生きるしか、ないんです。

[続く]第二回/100%以上の準備と究極のポジティブが道を切り開く

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vol.45

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代表取締役

山田敏夫

「世界に誇れるメイド・イン・ジャパンの一流ブランドを生み出したい」。そんな思いから、代表の山田敏夫氏が2012年にファクトリーブランド「ファクトリエ」を旗揚げ。優れた技術を持った日本国内の工場を開拓し、コロナ渦でも好調な売上を保っている。その原動力となっている山田氏の「熱狂」に迫る。
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