小松成美が迫る頂上の彼方

第二部

100%以上の準備と究極のポジティブが道を切り開く

元中日ドラゴンズ

山本昌

写真/芹澤裕介 | 2017.06.26

アメリカ留学で出会ったコーチ、アイク生原氏。そして1987年から中日ドラゴンズの監督に就任した星野仙一氏。二人の恩師に出会い、山本昌さんの野球人生が好転します。しかし、その背景には、山本昌さんの真摯な姿勢とポジティブ思考がありました。

元中日ドラゴンズ  山本昌(やまもとまさ)

1965年8月11日生まれ。左投げ左打ち。日大藤沢高校卒業後、1984年にドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。初勝利は入団5年目の1988年。以後現役32年間で、最多勝3回、沢村賞1回など数多くのタイトルを獲得。2006年には最年長記録となる41歳4か月でノーヒットノーランを達成。2008年には史上24人目となる200勝を達成し、2012年にはチーム最多勝利記録を更新。さらに、2014年には最年長勝利記録を更新するなど、晩年には数々の最年長記録を更新し、前人未到の50歳現役を実現。2015年に現役引退。通算成績は219勝165敗5セーブ。最新刊スカイマーク会長の佐山展生さんとの共同著書『生涯現役論』(新潮社)が絶賛発売中。

小松 山本さんのアメリカ「島流し」時代を支えてくださったアイクさんはどのような方でしたか?

山本 そうですね。思わず笑顔になってしまうような人なんですよ。本当に野球が好きで、四六時中野球の話ばかりでしたね。半年間寝食をともにしたんですが、どんな時でも野球の話だけでした。22歳という年頃の年齢でしたので、普通なら「家族はどうしている?」とか「彼女はいるのか?」とかそんな話があっても可笑しくないのですが、そうした会話はひとつもなく、本当に野球の話だけでしたね。

小松 それは山本さんにとっても楽しい会話でしたか?

山本 それは楽しく、面白かったです。試合の後もミーティングの時も、アイクさんが僕のプレーについて楽しそうに話すんです。アイクさんのコメントには特徴がありました。勝つと厳しくて負けると甘いんです。調子が良い時には辛口で「油断したらすぐに転落するぞ」と。悪い時には「今日はあのボールが良かったから、良いことにしよう」とにっこり笑う。とにかく、僕だけでなく、野球が好きな人に対しては分け隔てなく接する人でした。長嶋茂雄さん、王貞治さん、星野仙一さんが渡米した時にはアイクさんがお世話をするんですが、アメリカまで見学に来たファンの人たちのことにも一生懸命でした。野球が好きな人に対しては差別なく接していましたから、その辺が凄いな、といつも感心していました。

小松 相手の身分や役職で態度を変える人など、信頼できませんね。

山本 はい。若い頃の僕はアイクさんの素晴らしさをぼんやりとしか分かりませんでしたが、50代になって差別や区別をせずにどんな人とも渾身で向き合うアイクさんの誠実さの尊さを思います。今こそ、アイクさんの生き方をお手本にしていますよ。

小松 山本さんにとって「運命の人」と呼べる人がもう一人いますね。

山本 はい(笑)。星野仙一さんです。

 

人生たった一度の
星野監督への反抗

小松 「島流し」にしたアメリカでスクリューボールを覚えた山本さんを呼び戻し、登板の機会を与えてくれたんですね。

山本 アイクさんは当時星野監督と連絡を取っていて、「ヤマも良くなってきて、日本でも中継ぎでなら使えるかも知れない」と話もしてくれていたんですよ。それで、帰国すると最初は中継ぎで投げて、そのあと先発に昇格しました。

小松 星野監督、山本さんをアメリカへ送ってくださり、ありがとうございます(笑)。

山本 星野さんが監督でなければ、僕は1勝もできないまま引退していたと思います。出会いは、日々、そこら中にあると思うんですが、運命を旋回させてくれるような「人物」と言われる人はそうはいません。でも、ちゃんとやっていれば「人物」は現れるんだと思います。必ず近くにはいるんです。

小松 出会いは偶然かもしれませんが、山本さんが引き寄せていますね。星野さんとは現在でもお親しいですか。

山本 ええ、僕はことあるごとに星野さん電話しますね。今でも「監督」と呼んでいます。星野監督は2001年を最後にドラゴンズを離れましたが、それ以後も僕にとっては指揮官であり、恩人です。区切りがある度に電話してすべて報告しました。150勝であったり、200勝であったり、現役最年長勝利記録であったり、現役32年目で引退を決意した時であったり、いつも最初に電話しましたから。選手時代は「これほど厳しい人はいない」と思っていましたが、今でも監督と言ったら星野さんです。

小松 星野監督とのエピソードは数え切れないほどあると思いますが、一番はなんですか?

山本 1996年7月14日の阪神戦で登板して負けた後、こっぴどく怒られて。その時、僕は人生でたった一度、星野さんに一言、口答えをしたんですよ。もちろん、火に油を注ぐ結果になりましたけど。

出会いは偶然かもしれませんが、山本さんが引き寄せていますね

小松 怒った星野監督。目に浮かびます(笑)。

山本 新庄剛志選手にホームランを打たれたボールが、9分割で示されるストライクゾーンの「ど真ん中」と記録されていて、星野監督が僕を「こんなピンチにど真ん中に投げやがって!!なんや、お前、使えんやないか!!」と怒鳴りつけました。でも、僕には絶対にど真ん中に投げていない、という確信があった。記録が間違っている、と頭に来ていた僕は、思わず監督に向かって「使えませんから」と言ってしまったんです。それも、二度。

小松 それまで一度も反抗や口答えをしなかった山本さんが、なぜ。

山本 自分でも分からないのですが、あの時だけは堪えられませんでした。怒った星野監督は「こんな奴、クビにしろ!!」と言って怒りは頂点に。慌てて駆け寄ってきた島野育夫ヘッドコーチに「明日からファームに行きます」と告げて、ロッカーへ戻り、二軍に行くために荷物を整理していたんですよ。

小松 覚悟の反抗だった。

山本 はい。でも、ロッカーへやって来た島野コーチが「監督に謝りに行こう」と何度も言ってくれて、捕手の中村武志と二人で監督室へ謝りに行ったんです。シャワーを浴びてバスタオルだけ巻いた監督は僕らを見るなり、また怒り心頭で、「何しに来た!」「トレードに出したる!」「飼い殺しや!」と。試合終了後ユニフォームを着たまま直立不動で2時間怒鳴られ続けて、部屋を出ました。僕はファームへ行くことを決めて、ロッカールームに戻ったのですが、そこへまた島野コーチがやって来て、「明日、監督の家に謝りに行くんだ!」と言ったんですよ。当時、僕はすでにローテーションの中核でしたし、島野コーチも必死で食い下がってくれました。

小松 星野監督の自宅へ行ったんですか?

山本 はい、行きました。翌朝も島野コーチから電話があって、謝りに行くことを約束させられましたから。まず、僕は自宅へ伺うのだからと星野監督の自宅へ電話をいれました。

小松 なんと律儀な。

山本 まあ、そうなんですが、星野監督が絶対に電話に出ないことを知っていたので、安心していたんですよ。監督就任前の評論家時代、自宅へお邪魔すると、目の前にある電話が何度鳴っても監督は絶対に受話器を取らない。奥さんか娘さんが出て「お父さん、お電話です」と。それが星野家のルールだと思って、奥さんか娘さんに「これらかお邪魔します」と伝言するつもりだったんです。ところが、僕がかけた電話に「もしもし」と出たのは監督本人でした。「もしもし、山本です」「どちらの山本さん?」「あの、山本昌です」「おう何の用や」「昨晩のことでこれから伺いたいのですが」「分かった、待っとる」そんなやり取りをして、自宅へ一人で向かいました。

小松 緊張したでしょうね。

山本 生きた心地がしませんでした。けれど、家に着くとその気持ちが一変します。星野監督は「よう来たな」と言って部屋に上げてくれました。娘さんがコーヒーを運んでくると、「コーヒーは駄目だ。山本さんはコーヒーじゃなく紅茶が好きなんだ」と言って、紅茶に入れかえさせたんです。

小松 前夜の星野監督とは別人ですね。

山本 そうなんですよ。20〜30分ほど世間話をすると、前夜の話しを蒸し返すこともなく、星野監督はこう言いました。「お前、早く帰って遠征の支度をしろよ。みんなと東京へ迎え」と。この時、僕は指揮官のあるべき姿を思い知ったんです。仕事場でのあの激しさ、辛辣さは、僕にはないものです。時には監督の理不尽な物言いに閉口することもあった。けれど、それは、僕や中村を憎んでのことではない。すべては勝利をもぎ取るため、なんです。自宅で僕を迎えた星野監督は気持ちをリセットし、前夜の激高を一度も見せず、僕を見送りました。その態度には「中日ドラゴンズの野球にはお前のピッチングが必要なんだ」という思いが込められていた。星野監督と僕は、性格は正反対かもしれませんが、あの時に感じた絆はチームスポーツの真髄であると思います。

小松 仲良しクラブではなく勝利のためのチームですね。監督のスタイルは監督の数だけあると思いますが、まさにこのメリハリこそ、星野スタイルですね。

山本 プロ野球の球団を率いて目指すものは、唯一勝利です。そしてその先にある優勝です。星野監督の視線は絶対にそこからぶれなかった。だからこそ、今でも誰よりも尊敬しています。

小松 こうしたせめぎ合いすら、絆を強くするのですね。

山本 ぶつかってこそ、ですね。僕は普段は心配性で、マイナス思考もあるんですが、追い込まれるとプラス思考に変わる。星野監督に反抗して二軍落ちを覚悟した時にも、また一軍に上がって勝てばいいんだ、と心の中で思っていました。人間、叱られなくなったら終わりだと、怒鳴られながら納得もしていました(笑)。シーズン中でも連敗してどん底まで落ち込むと、そこから気持ちが上向いて、そろそろ勝てるだろうって楽観できた。打たれ強いというか、どん底からの粘りというか、自分自身そんな切り替えは上手だったのかな、と思いますけど。

 

小さな“ツキ”の積み重ねを
自信に変える

小松 努力家でおおらかで自然体。けれど、不安もあり緊張もあり、小さなジンクスもものすごく気にしたりして。山本さんはその両極端を持っていますね。

山本 才能のない自分をプロ野球選手にしてもらった。そのことはもう運命だと受け入れています。でも、それに甘えたら、すぐに脱線することも分かっていました。だからこそ、小さなツキを積み重ねるための努力を惜しみませんでしたよ。先発のローテーションを待っている時には、常に小さなツキがどこにあるのか探していました。たとえば、大好きな「紅茶花伝」というミルクティーを、ある日我慢するんです。そして、これを我慢しているんだから運気が上昇するはずだと、小賢しいですが、そう考えていました。息子よりも若い選手と同じ距離を走る、決めたトレーニングは這ってでもやる、どんなに誘われても先発の数日前からは街に出ないなど、マイルールを決め、頑なに守りました。野球の神様のような存在がいて、その存在に「これだけやっていますよ」と、密やかにアピールしていましたね。黙々と小賢しく「これだけやっているんですから、勝たせてくださいよ」って(笑)。見えないところで手を抜いたりさぼったりというのはできません。相手は、神様なんでね。

小松 そういう思いの積み重ねが200勝越え、そして50歳現役につながっていったんですね。

山本 子供の頃から積み重ねてきたと自分では思っています。小学生の時、熱い風呂に入り肩まで浸かる。100を数えながら「100まできちんと温まりますから、明日野球で良いプレーをさせてください」と念じていました。野球を始めてから、ずっとそんなふうに生きてきたんです。

小松 山本さんの真髄を伝えるエピソードですね。

山本 219勝165敗と、勝ち越しで投手人生を終われましたし、50歳でマウンドに立てたことも、日本で一番長くプレーできたことも本当に幸せでした。僕が幸運に恵まれてきたことは間違いないのですが、同時に、僕が小さな「願い」をちゃんと重ねてきたからかな、とも思います。

小松 もう一度野球人生をやれるとしても、そうしますか。

山本 きっと同じように願いを積み重ねます。そしてこれも同じように「殉ずる」気持ちで野球に臨むんじゃないかと思います。

小松 スポーツは肉体の表現ですが、肉体のパフォーマンスだけでは最高の結果は得られない。肉体と心は常に対であって、山本さんはそのことを証明なさっていますね。

山本 プロ野球って、当然ですが凄いアスリートの集まりです。選手の力が拮抗していますし、新たなライバルも毎年入ってきます。そういう中でやっていくには自分にとっての「自信」がないとダメなのかなって思います。僕は、他の選手より勝っている、という自信はありませんが、決めたことをやり通すという自信はあります。

小松 誰もが頂点を目指して戦っているフィールドで、いい加減は許されないのですね。

山本 勢いは大事だと思いますが、何より継続です。野球で良いプレーをするためには「いい加減」じゃ無理です。『生涯現役論』という本で対談させていただいたインテグラルCEO・スカイマーク会長の佐山展生さんとお話させてもらった時にも、その話題で熱くなりました。ビジネスでも野球でも、ギリギリの稜線を越えていくには、ちゃんとやっていくしかない。精魂込めて誠実にやっていくしかない。今、ゲームの解説をやらせていただいていますけど、それも同じ気持ちです。予習しながら選手のデータを頭に入れて、ゲーム中にもメモをとって新たなデータを蓄積しています。コツコツとですが。

僕は、他の選手より勝っている、という自信はありませんが、決めたことをやり通すという自信はあります

小松 20代から50代までプレーした山本さんは「変化」もしくは「進化してく自分」を、受け入れ信じていらっしゃいますよね。

山本 ちゃんとやっているから大丈夫だろうとは漠然と思っています。僕は、小心者なので、とにかく準備をします。緊張する場面に出て行くには、万全な準備は不可欠です。それなしにマウンドに立つなど、僕にはあり得ません。だって準備しないと不安じゃないですか(笑)。

 

辛いことこそ習慣にし
100%以上の準備をする

小松 けれど生身の人間ですから、好不調の波もありますよね。

山本 もちろんです。僕の場合、調子が良くない時でもやり過ごしません。「ホームランをぽーんと放り込まれたらどうしよう、でも今日の球なら放りこまれるかもしれないな」と心の準備をします。大崩れしてノックアウトされることを回避し、悪いなりにできることをしようと考えて投球していきます。

小松 プレーもメンタリティも、適当にしない。準備こそが大切なんですね。

山本 100%を越える準備が僕の真情です。現役時代のランニングとか準備もね、限界のラインを越えるところまでやってきました。32年間変わらずに。ぎりぎりまで挑んでいましたから、「こんなもんでいいだろう」っていうことは、一度もなかったです。ああ、準備が足らないよ、と顔色を変えるようなことはなかったですね。シーズン中というのはローテーションが決まっていましたから、その間にやるべきことを全て決めていました。しっかり走ってピッチング練習して。調子の悪い時は無理をせず、良い時はこれくらいで投げて、と全部決めていた。だから、肉体的にはきつかったですが、焦ることも迷うこともなく精神的にはラクでしたよ。

小松 焦ったり「ああやっておけばよかった」と後悔したりすることが嫌いだった?

山本 はい、大嫌いです。なので、すべて習慣にしました。習慣にしちゃうと強いですよ。

小松 規律正しい生活も、願をかけることも、肉体を追い込むトレーニングも、やる時とやらない時があるのではなくて、常に習慣に。

山本 習慣にすることで、それが日常になっていたのでなんとも思ってなかったですね。今、講演などさせていただきますが、それも同じです。壇上にその日話す内容を記したノートを持っていくんですね。90分の講演なら100分とか110分の内容を書いていきます。話し出したら実際はノートを見ないんですけど、準備をし、少し余分に書いてある、と思うだけで心に余裕と自信が生まれます。万が一、時間が余っちゃったと焦ったとしても、いつも以上の内容がノートにはあるわけで冷静になれますよね。

小松 それは現役時代と同じ準備ですね。

山本 はい、自分への決め事、約束事です。

小松 山本さんは、マイルールも徹底していますよね。例えば、登板の日にはカレーを食べるとか、登板の後もアイシングをしないとか、爪のケアにあまりこだわらないとか。そうした自分ルールは、やっていく中で作られたものですか?

山本 はい、いろんな人の話も聞くんですけれど最後は自分の感覚を大事にして決めていました。登板の日にカレーを食べるのも、食べやすいというのもありますが、決めておけば余計に考えたり時間をつかったりしなくて済むからです。アイシングも、若い頃にはトレーナーに「やりなさい」といわれてやっていた時期もありますが、ある程度経験を積んでいくとアイシングは自分には必要ないなと感覚的に思いました。アイシングしても疲労感が取れないので、「僕はいいです」とトレーナーに告げました。

小松 どんなことも、自分の感覚を信じて選択していく。

山本 そうですね、自分の感覚は大事にします。アイシングは、否定も肯定もしないけど自分にはいらないな、と。それで肩も肘も50歳まで手術しないで済んだんですから、チョイスは間違えてなかったと思います。まあ、万が一間違えていたとしても、間違ってなかったことにしちゃいますね(笑)。

小松 後悔をしない。

山本 はい。現実こそ、すべてですよね。僕は常に、現状の中でなんとかしようというタイプだったので、「あの時、ああすればよかった」という感覚はないんです。

小松 前向きですね。でも、例えばシーズンインして絶不調な時でも、そう思えましたか。

山本 春の段階から一生懸命調整してきて、開幕して投げたら「うわっ、失敗したな」って時もありましたよ。その時には、「調整に失敗したのは自分であって誰のせいでもない。また調子上向いてきたら頑張ろう」と考える。開幕から7、8月まで全く勝てなくて、「山本引退か」と新聞に書かれるような不調の時には、「シーズンはあと3ヶ月ある。ペナント終わるまで頑張ろう」と。まあ、この切り替えこそ現役生活を支えました(笑)

小松 山本さんは、ピッチングに関してこう言いました。「マウンドでの出力も100%だと息切れするかもしれないし80%だと相手を倒すことができない。だから90%の力を発揮することにこだわった」と。

山本 はい。僕は90にこだわりました。100を出すことより、10残すことの方が難しいんだけど、そこを残しておくことによって、ペース配分とかバランスとかが見えてくる。中日ドラゴンズの同僚だった山﨑武司が、僕のことを「究極のプラス思考だ」と言うんです。ファーストを守っている彼が、「滅多打ちにされてどうにもならない昌さんに声をかけると『大丈夫、大丈夫』って声が帰ってきた。だいたいエース級のピッチャーは、相手に4、5点取られたら普通は『今日はもういいや』と適当に投げたり、ふてくされた表情になるのに、昌さんのそんな態度や表情を一度も見たことがなかった」と。山﨑からそう言われてうれしかったですね。

小松 こてんぱんにやられても、適当に投げたり、ふてくされたりしなかった。振り返って、それはなぜですか?

山本 野球って1点でも差が少なければまだ逆転のチャンスはある。そう思うんですよ。4、5点取られたら本当は絶望的ですが、うちのチームが6点取って逆転してくれる可能性はゼロではなくて、そのためには、相手チームの6点目はぜったいに与えてはならない、と考えるんです。あきらめなかったですね、最後までもがく方でした

小松 打たれ強い魂はどうやって培っていきましたか。

山本 もともとの性格もありますが、最良の方法で戦える肉体を鍛えていく過程で、あきらめることをしないようになりました。初動負荷理論を用いたスポーツトレーナー・小山裕史先生との出会いと、そのトレーニングが僕を50歳の現役投手にしてくれたんです。

小松 小山さんは山本さんの野球人生に欠かせない方ですね。

山本 はい、小山先生に出会っていなければ、僕は30代で引退していたと思います。

[続く]第三回/“すごい”と思った人にとことんついて行く! 真摯な姿勢がツキをもつかむ

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vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
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