小松成美が迫る頂上の彼方

第一部

勝ったら威張らない、 負けても腐らない、それがリーダーの条件

海洋冒険家

白石 康次郎

写真/芹澤裕介 | 2017.12.11

26歳という若さ(当時の最年少記録)で単独無寄港無補給世界一周という偉業を成し遂げたヨット界のレジェンド白石康次郎氏が登場。「海」という大自然を相手に戦いを挑む冒険家は、どのようなマインドで挑戦を続けているのか? そこには、ビジネスを舞台に戦うベンチャー起業家にも通じる圧倒的な努力があり、それを支える大いなる人間力がありました。“海の男”のぶ厚い背中に迫ります。

 海洋冒険家 白石 康次郎(しらいし こうじろう)

1967年5月8日東京生まれ鎌倉育ち。高校在学中に単独世界一周ヨットレースで優勝者した故・多田雄幸氏に弟子入り。レースをサポートしながら修行を積む。1994年、当時26歳でヨットによる単独無寄港無補給世界一周を達成。自身3度目での達成とともに、史上最年少記録(当時)を樹立。その他数々のヨットレースやアドベンチャーレースで活躍し、2006年には念願の単独世界一周ヨットレース「5OCEANS」に参戦し、歴史的快挙となる2位でゴール。2016年11月にはアジア人として初となる世界一過酷なヨットレース「Vendée Globe」への出場を果たす。比類なき経験と精神力は教育界からも注目され、課外授業や企業での講演も多数行っている。主な著書に、『七つの海を越えて』『世界一過酷な海の冒険 アラウンドアローン』(文藝春秋)、『人生で大切なことは海の上で学んだ』(大和書房)、『精神筋力』(生産性出版)などがある。

小松  白石さんは、2016年に世界最高のヨットレースである「ヴァンデ・グローブ」出場なさいました。アジア人で初出場であることが世界で報じられましたね。

白石 単独無寄港無補給世界一周ヨットレース「ヴァンデ・グローブ」は、4年に一度の大会で、サッカーでいうならワールドカップ。その大会にアジア人で初めて出場したわけですが、つまりそれは「有色人種・初」ということなんですよ。白人以外参加できなかったレースに日本人の僕が参加したという、その意義は大きかったかな。

小松  ヨット歴およそ30年以上の白石さんが仰ぎ見ていた大会でした。やっと一つ、新たなドアを開けられた、とインタビューでお話しされていましたけど。そのくらいのチャレンジでしたか?

白石 「ヴァンデ・グローブ」だけが目標だった訳ではないですが、出場しなければならない大会であったことは確かですね。

小松  どんな世界にも「慣例」という名の区別や差別があります。そうした枠組みを乗り越えた。それは歴史的な出来事と言えると思います。

白石 僕は、あんまりヨットが得意でもないし、航行だってうまくはない(笑)。ヨットの技術だったら僕より優れた人もいますよ。でも、最初に世界一周をしてから25年、ずっと「いつかヴァンデ・グローブへ」と思っていましたから、2016年は記念すべき年にはなりました。

小松  白石さんが、ヨットによる単独無寄港無補給世界一周の史上最年少記録(当時)を樹立したのは、1994年で当時は26歳でした。航行したのは1993年10月3日-1994年3月28日。176日間をかけてのチャレンジの成功に日本中が沸きましたね。

白石 あの時も、準備が大変でたくさんの方々に助けてもらったな。なかなかスポンサーがつかなくて。雑誌「Number」の当時の編集長、設楽敦生さんに助けてもらったり、世界初五大陸最高峰登頂を果たし、のちに国民栄誉賞も受賞した冒険家の植村直己さんのグループに助けてもらったりして、海に出られたんです。そこから四半世紀かかって、ヴァンデの一員になれたということは、大きな意義があったと思います。

小松  「ヴァンデ・グローブ」は、たった一人で全長60フィートの外洋レース艇に乗って、地球一周を無寄港で駆け抜けるソロレーサーの頂点といわれていますね。単独、無寄港、無援助が条件で、途中いかなる外部からの物理的援助も受けられないそうですね。

白石 はい。極洋の氷山の間を航行したり、荒天が多い難所であるホーン岬を回ったりと、実際ヨットレースの中でも一番苛酷で困難なレースです。コースは、南半球1周およそ2万6千マイル(約4万8152km)で、その航程をおよそ100日間かけて帆走するんです。

小松  南洋に吹く強風、荒波という厳しい気象条件は他のレースとは比較できないとか。

白石 完走自体が難しい。かなりの割合の棄権者が出ます。僕もその一人になってしまいました。すみません。

小松  4年後、雪辱を期して準備しているでしょうね。

白石 ええ、もちろんですよ。2016年は中古艇でのチャレンジでしたが、次回は新艇で挑みたいです。

4年に1度開催され、最も過酷なヨットレースと呼ばれる「ヴァンデ・グローブ」。白石氏は2016年にアジア人として初出場を果たすも、南アフリカ沖でマストが折れてしまい、レース続行は不可能と判断しリタイアすることに。(PHOTO/YOICHI YABE)

小松  しかし、白人以外に門戸が開かれていなかったレースに、出場できましたね。

白石 確かに大変なことでした。感覚としては、フランス人が日本の相撲にチャレンジするようなもの。

小松  それくらいの大きな隔たりがあった。でも、そこを打ち破ったわけですね。

白石 これも、縁ですね。僕のヨットの師匠である多田雄幸さんからの縁ですよ。多田雄幸っていうのは、フランスヨット界では誰もが知るヒーローなんです。第1回アラウンド・アローン(BOCレース:1982年8月28日~ 1983年5月17日)に参加した多田さんは、クラスIIで優勝します。日本人がこんなビッグレースに優勝するなんて、と欧州で多田さんの名が轟くことになりました。

小松  個人タクシーのドライバーの多田さんが、手作りのヨット「オケラ五世号」で出場し、ノックダウン(横転)や座礁など、遭遇した数々の苦難を乗り越えて、見事に優勝を果たした栄誉は、当時、大きなニュースになりましたね。

白石 その多田さんと競い合っていたヨット界のスーパースター、フィリップ・ジャントさんが、1989年に単独無寄港無補給世界一周ヨットレース「ヴァンデ・グローブ」を企画します。なので、フィリップ・ジャントさんの故郷のフランスの西部にあるレ・サーブル・ドロンヌっていう街が、未だにスタート地点になっているわけ。当然、フィリップさんの好敵手だった多田さんも出場しないかと誘われたんだけど、スポンサーが見つからなくて出られなかったんだよね。

小松  1989年といえば、白石さんは22歳。その時、すでに多田さんの弟子になっていましたね。

白石 ええ。多田さんのサポートをやっている僕のことは、フランスの古いセーラーは、みんな知っているわけ。以後、「白石は、多田が出られなかったヴァンデを狙っているんだ」といわれてきました。「やっと出てきたね」って、みんな喜んでくれたんだよね。アジア人初だからって、特別視されたり、疎外されたりしたわけじゃなく、とても歓迎されました。それは、多田さんのおかげなんですよね。

小松  30年近く追い求めてきた夢の実現。師匠の夢を受け継いでもいる。素晴らしいですね。

白石 出場の機会が来た。そう感じたので、僕は突き進みました。ヨット購入のための資金がなんとか集まったのはヴァンデ・グローブ参戦まで1年を切っていた頃。本当なら諦めなきゃならない時期ですが、それでも懸命に準備をしていたら、レースの仲間が「康次郎、あそこの船、今整備してるから」って教えてくれて。

小松  見に行ったんですね。

白石 そうです。教えてくれたのは、ベルナールっていう世界一周のヨットレース「5オーシャンズ」に僕がレースに出て2位になった時の1位の選手。彼が教えてくれたの。それで「わかった、行ってみるよ」って言って、その場で船を買う交渉をして。で、そのヨットに就いているチームマネージャーが、僕のチームにそのまま入ってくれたんですよ。

小松  そのままチームに?

白石 そうなんです。その後も、次々に素晴らしい人たちが集りました。「ヴァンデ・グローブ」に過去3回出場し、3位と2度のリタイアを経験している大先輩、フランスのローラン・ジョルダンの紹介もあって、優秀なクルーが集まったんです。

 

仲間を信じることが、トップの最大の仕事

小松  白石さんが出場するための道ができていたんですね。

白石 資金は乏しいチームですが、ヨット愛は世界一。類は友を呼ぶって、本当なんですよ(笑)。お金じゃない魂の結びつきが強い。僕のスポンサーさんもみんなそういう方々なの。商売につなげてあぶく銭を得ようという方はいないです。みんな、海とヨットと冒険への熱い思いでつながっている。

小松  結束していて、仲がいいんですね。

白石 本当に家族のようです。僕ね、何度か経験したことあるけど、お金を奪い合うと最悪だよ。最初、貧しい時って、みんなお金を出し合って「やろう、やろう」と盛り上がってくれる。でも、次にその人が有名になって、スポンサーがついたりすると、今度はそのお金を奪い合おうとするんだよね。それで憎しみあったり、バラバラになっていったりしてしまう。僕もこれまでには、散々そういうケースも見てきました。でも、僕のチームはそういう世界と対極にある。

小松  それは誇らしいですね。でも、こうした世界最大のレースに出るにあたり、そういうご苦労もしたけれども、そのクルーにも会えた。

白石 そう。胸を張れます。すべては縁なんです。

小松  白石さんの天命や運命もあると思います。

白石 うん、そうですね。ヨットで帆走するために、運を上げるっていう作業をしなきゃいけないんです。これは、すごく難しい作業で、目に見える作業じゃないし。科学的に証明されることじゃない。

小松  されないですね。

白石 ただ、僕の競技っていうのは、運に左右されるんですね。具体的にいうと、ヨットほど不特定要素が多い競技はない、ということです。普通のスポーツって、環境が整備されているでしょう。陸上トラックだってテニスコートだって野球場だってサッカー場だって、まずイレギュラーってないんです。だから、実力で拮抗できるんだよね。それに制限時間内に終わるでしょ。僕の競技っていうのは地球一周するんですね。競技時間は約2000時間です。つまり、グランドは海。でも、海って人間のつくったものじゃないわけ。

小松  人知が及ばない。

白石 そう。及ばないところで、競技するから、1秒先に何が起こるかわからないんですよ。どうなるかわからないし、じゃあ、実力があって資金もあるすごいチームが勝つ、とは限らないんです。

小松  自然には人間の力は及ばないですね。どんなにお金があっても。

白石 そう。及ばない。そんな風に不特定要素の最も多い競技だから、運の割合が途轍もなく大きいの。この運をいかに上げるかっていうことは、ヨットマンにとってとても大切なんですよ。

小松  それは何か方法があるんですか? 運を上げるための方法が?

白石 そんなことわかったらやっています(笑)。ただ、今も思っているのは、いつも明るく元気で前向きにいることです。

小松  なるほど。

白石 とにかく、いつも機嫌よくしてることですね。いつも明るい雰囲気にしておくこと。

小松  それが運を呼び込んでいる?

白石 そう感じていますよ。明るさと暗さって同居できないんだよ。明るく朗らかで活気に満ちていたら、そこには暗い人間とか、変な人間とか、いられなくなるんです。僕のチームのパーティーでも「こいつからお金を奪ってやろう」なんていう人、いられなくなる。僕のチームってフランス人が多いんだけど、一回もケンカなんかしたことない。怒鳴り合うようなこともないです。

小松  白石さんのチーム。太陽が燦々と降り注いでるイメージです。

白石 ありがとうございます。ヨットを操縦する僕はチームのトップですが、トップの仕事って仲間を信じることなんだよね。それが、僕の最大の仕事。それも言葉じゃなくて、行動によるものなんですよ。言葉なんかいくらでも言えるからね。絶対的な信頼を行動で示すしかないわけ。宗教も育ちも国も言葉も違う連中をひとつにまとめて、チームを指揮しなきゃいけないでしょ。そうする時に、行動以外ないんだよね。だから、信頼たる行動をしないとダメなの。

小松  心をひとつにするから人智の及ばない大海原へ繰り出していけるんですね。それでも、レースは過酷で思いもよらないことも起こる。

白石 起きます。

小松  どんなに準備していても、いいクルーに恵まれても、ある日、ぐしゃっと音がしてマストが折れる。

白石 マスト折れたね。僕のヴァンデ・グローブが終わった瞬間でした。終わって検証しましたが、原因は、はっきりしています。

小松  それは?

白石 原因は単純でした。マストが古かったんです。今回、29艇が参加した中で、マストを折ったのは6艇です。共通点は、全員中古の艇だったんですよ。やっぱり、新しいマストって丈夫だね(笑)。

明るく活気に満ちていれば、いいヤツしか残りません

小松  次のレースは2020年ですね。そこで完走を狙うには新艇しかない。

白石 当然、新艇がいいわけ。ヨットは新しい方がいいに決まっている。ただ、2016年に「マストを変える」っていう選択肢は僕らにはなかった。予算が足りなかったから。あのマストで戦わなきゃいけなかったんだよね。それも、僕の運です。よく戦ったなと。

小松  あの幕切れも含め、素晴らしいレースでした。

白石 ありがとうございます。

小松  白石さんには完走して優勝を目指すというミッションもあったと思いますが、出場することが重要でしたね。出場してヴァンデ・グローブというレースを日本人に知らせる、ということが。

白石 僕自身は、日本人初出場、そして初完走を狙ったんだけど、残念ながら一気にツーステップは行けませんでした。一歩ずつ。2016年のレースは、その教訓だったと思います。

小松  次回の開催まで、あと3年ですね。

白石 時間は刻々と過ぎています。僕の理想は、艇をメイドインジャパンでやりたいんだよ。日本で、船を設計して、つくって、日本のチームで優勝を狙いたい。それこそが、ヴァンデ・グローブ出場の目的です。まあメイドインジャパンは、10年以上かかるかなぁ。

小松  簡単ではないですね。

白石 はい、10年以上かかる。だから、僕だけの世代でなんとかしようとは思っていなくて。

小松  次世代にその目標を受け継ぐんですね。

白石 大きな目標をクリアしようとしたら、一人の人生、その尺度で計っちゃダメですね。最高のスキッパーを輩出するフランス人だって、パッと出て優勝なんてなかなかできないわけ。実績を築き、本当の勝者になるまでに何十年もかかる。だから、日本のヨット界もそうした階段を上る必要がありますね。まずは、僕がヴァンデ・グローブに出場し、仲間をつくって、その経験を積み重ねていく。やがて、いずれは、日本で船をつくって、日本のスタースキッパーが優勝を目指す。それは僕ではないと思うけれど、その一翼を担っている自負はありますよ。

小松  白石さんの挑戦は、自分だけのものではないんですね。次世代にまで受け継がれて行くもの。

白石 そうなんですよ。僕がヨットレースで何をもたらしたいかというと、世の中を明るく元気にすること。僕は子どもの頃からずっとこの性格だった。みんなと明るく元気に遊ぶことができたのね。そんな僕を一番表現できるのが、ヨットだった。ヨットの操作は、ほんと、得意じゃないよ。不器用でね。でも、大好き。だから、大好きなヨットで世の中を、明るく元気にしたい。この行為に引退などないんです。だから僕は、命ある限りヨットマンでいて海に出ていきますよ。

小松  ヨットマンに引退はないですね。ゴールもない。

白石 ない。これは、永遠に続いて行くものでね。だから、僕は生涯現役なんですよ。そう決めています。

小松  念願のヴァンデ・グローブでマストが折れた。それはつまり、挑戦の終焉です。でも、敗北ではない。

白石 完走できなくて、申し訳なくて、クルーや支えてくれたスタッフや、資金を出してくださったスポンサーの方々に、どうやって詫びたらいいだろうと思いました。でも、同じ心で、マスト折った僕は、この状態でどうすればみんな喜ぶだろうって、ずっと考えていたわけ。涙だって枯れ果てましたよ。悔しいし悲しいし。今回は4億円近い予算をもらっていますから、弁償できる額じゃない。謝ったって済む話じゃないわけだよね。でも、この状態で、どうすればみんな喜んでくれるだろう、って思った時に「僕の泣き顔が見たいのかな。僕の愚痴聞きたいのかな。いや、違う。負け惜しみが聞きたいわけじゃない。次に向かって、よし、次どうすれば完走できるか。さらに夢を追ってやることが、みんなが一番喜んでくれる」と確信できたの。だから、思い切って、この船を日本に持って帰ったわけ。

小松  あの折れたマストは、次のヴァンデ・グローブ参戦への意思表明でしたね。

白石 はい。僕は、起こる問題すべては「愛と勇気と忍耐で解決する」って思っているんです。恨みとかつらみとか、嫉妬とか、そういうのは使わない。どうやったら愛を示し、どうやったら勇気を持って、どうやったら忍耐を持って、解決できるかと考える。

小松  白石さんはすべて本気、真剣ですね。

白石 何か問題が起きた時に「愛と勇気と忍耐で解決する」という方程式に当てはめるわけ。今回の事態の答えは「よし、これを日本に持ってきて、次完走しよう」と訴えようと。子どもたちに、愚痴らないで腐らないで、恐れないことを表現することが、僕の仕事。これは、逆に言うと、完走した時にはできないんです。完走した時は、「ありがとうございました」とだけ感謝を伝えることになる。大げさにサクセスストーリーなんて語らない。

小松  勝ったら威張らない、負けたら腐らない。そうした態度であることがアスリートの役目だと私も思います。

白石 これ、多分、経営者にも言えると思うんだけど、チャレンジ精神、負けた時の態度、って人を表すでしょう。本性が透けて見えますよ。僕は今回、負けました。だからこそ、一筋の陰すら射すことがない、明るさ、快活さを失いたくなかった。それこそが僕の役目だと思いました。

[続く]第二回/次代を育てるために、 失敗“させる”

ノンフィクション作家。神奈川県横浜市生まれ。専門学校で広告を学び、1982年毎日広告社へ入社。その後放送局勤務など経て、1989年より執筆活動を開始し、スポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多ジャンルで活躍。堅実な取材による情熱的な文章にファンも多い。代表作に『中田英寿 鼓動』『勘三郎、荒ぶる』『熱狂宣言』(すべて幻冬舎)『それってキセキ』(KADOKAWA)など。知的障がい者を雇用する町工場に密着した最新刊『虹色のチョーク』(幻冬舎)が発売中。

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vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
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