小松成美が迫る頂上の彼方

第四部(最終回)

“チームのために”が一番強い そう動けるスタッフを集めることがリーダーの資質

元中日ドラゴンズ

山本昌

写真/芹澤裕介 | 2017.07.24

球界のレジェンド・山本昌さんを迎えての連載最終回。32年の現役生活のなかで見出した、強い組織の条件、リーダー像などマネジメント論に通じる貴重な体験談を語っていただきました。

元中日ドラゴンズ  山本昌(やまもとまさ)

1965年8月11日生まれ。左投げ左打ち。日大藤沢高校卒業後、1984年にドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。初勝利は入団5年目の1988年。以後現役32年間で、最多勝3回、沢村賞1回など数多くのタイトルを獲得。2006年には最年長記録となる41歳4か月でノーヒットノーランを達成。2008年には史上24人目となる200勝を達成し、2012年にはチーム最多勝利記録を更新。さらに、2014年には最年長勝利記録を更新するなど、晩年には数々の最年長記録を更新し、前人未到の50歳現役を実現。2015年に現役引退。通算成績は219勝165敗5セーブ。最新刊スカイマーク会長の佐山展生さんとの共同著書『生涯現役論』(新潮社)が絶賛発売中。

小松  山本さんは生涯一球団。フリーエージェントの機会も見送りました。他球団でのプレーを望まなかったのは、中日ドラゴンズが好きだったからですか?

山本  その通りです。ドラゴンズ以外で投げる気持ちはまったくありませんでした。元々僕は、エリートとして入ったわけじゃないですし、ドラフト5位で5年目まで勝ち星がない、言わば「お荷物」の選手でした。そんな自分をドラゴンズという球団は見捨てず育ててくれた。そこから離れる選択肢はなかったですね。もちろん球団も好きですし、何よりドラゴンズファンの方々が大好きでした。球団の仲間、ファンの方々、そうした人々に囲まれているなかで契約時にフリーエージェントをちらつかせる交渉は、僕にはできなかったです。

小松  山本さんは、契約公開で1回も保留にしたことはないそうですね。

山本  はい、30年間、一度も契約を保留したことはありません。球団から提示された条件にその場で判をつきました。金額に対しては球団が評価するものですし、自分から言うべきことではないと考えていました。それに、十二分な評価を受け十分な年俸をもらっていたんで、こちらから何か言うことはありませんでした。

小松  ドラゴンズ以外に行っていたら、こうはなってないでしょうか?

山本  そう思います。星野監督であったり、名古屋の土地柄であったり、そういうものに助けられましたよね。温かい土地柄で、いつも温かく応援してくれていましたから。あとは、スタッフやコーチ、監督すべて、みなさんに出会えたからですよね。山本昌という遅咲きの、怪我も負ったピッチャーが戦うためにはたくさんの助けが必要でした。ドラゴンズには常にその環境がありました。そして、一人では何もできない僕自身、『チームのために』という思いで投げていました。自分の一球一球は、チームのためにある。一試合一試合をファンの方々のために戦う。今振り返ると、それが全てかも知れません。

小松  現役後半は、対戦相手が息子さんよりも若いっていうこともありましたね。経験としても年齢としても山本さんは「リーダー」であったと思いますが、山本さん自身が求めたリーダー像はどのようなものでしたか?

山本  球団では、10年以上最年長でした。その時に思い描いていたのは「自らの背中で語る」ということです。クチうるさいことは言わなかったですね。若い選手に伝えたかったことは、黙々と実践しました。「山本さんがやっているんだから、グラウンドから先に帰れねーや」「この年齢になってあれだけ走っているんだから、俺もやんなきゃな」っていうのは、ドラゴンズの選手間にあったはずです。言葉でひっぱるタイプではなかったですが、練習をサボったこともないですし、メニューを変えたこともありませんでした。

小松  山本さんの黙々と走る姿、投げる姿は“雄弁”だったでしょうね。

山本  おそらくですが「あれだけ黙っている山本さんに何か言われたら、お終いだぞ!」という緊張感はあったはずです。

 

揺るぎない鉄則を守ってこそ
本当の強さが生まれる

小松  グラウンドでのそうした緊張感が、チームの結束を強めていきましたね。

山本  はい。同時に、グランドを出た時の、礼儀と身だしなみに関しては言葉にして注意しました。髪の毛とか服装、話し方などにはうるさく言う方でしたね。ドラゴンズは、1936年に創設された伝統のチームなので、規律は率先して守らなければと意識しました。これは星野さんが言っていたんですが「日本人の髪の色は白か黒しかない」んですよ。

小松  茶とか金髪とかはないんだ!と(笑)。

山本  そうです。オフの間はね、選手それぞれ好きに楽しんでもらっていいんですけど、シーズンが始まれば、ドランゴンズという伝統のあるチームの顔になるわけです。そういうところは、年長の僕がしっかりやっていかなきゃと思って、髪の毛が茶色いとか襟足長い選手がいると呼びとめて言っていましたね。

小松  山本さんに言われたら、気持ちが引き締まりますね。

山本  野球は外見でやるんじゃない、と言う考えの選手もいると思います。けれど、僕は、プロ野球選手が単なるスポーツのパフォーマーだとは思っていません。規律や社会貢献の気持ちが失われたら、ファンの方々を失望させるだけです。

小松  チームには精神的な鉄則が必要ですね。タガが緩むと、転覆します。

山本  その怖さは年長になるほど感じていました。だからこそ、誰かを抱え込み、徒党を組むようなこともしなかったですね。

小松  派閥のようなもの?

山本  そうです。全くしなかったですね。グループを作りお山の大将になるようなことに興味もありませんでした。みんなでひとつになることを心掛けました。実際、ドラゴンズは、すごく仲がいいというかチームワークがよかったです。僕の下には岩瀬仁紀がいましたけど、岩瀬もチームの一体感を大事にしていました。でも、みんなちゃんとしていましたよ、僕がいる時にはね(笑)。

小松  ドラゴンズのいい伝統は、後世に残したいですね。

山本  強いチームっていうのは、やはり、そういうところがしっかりしているんですよ。今の広島カープなんかも黒田博樹や新井貴浩がしっかり指導していたんだろうなって、思います。

クチうるさいことは言わなかったですね。若い選手に伝えたかったことは、黙々と実践しました

小松  山本さんのリーダー論を伺っていると、監督をしている姿を思い浮かべてしまいますが(笑)。

山本  いや、まあ(笑)。もちろん、もう一度ユニフォームを着たいとは思っています。それがピッチングコーチなのかなんなのかは、まったく分からないんですけど。でも、そのモチベーションがなければ解説はできないですよね。

小松  ゲーム解説もコーチや監督への道程ですね。

山本  テレビやラジオで“観戦”している方に分かりやすくゲームを伝えると心掛けていますが、解説をすると、何しろ自分の勉強になります。

小松  解説をしていると、現役時代とは違う視点でものが見えることもありますか?

山本  ピッチャーに関しては、だいたいのことは分かりますが、攻撃や作戦に関しては、驚くことがたくさんあります。いろんなことが見えますよね。

小松  例えばどんなことですか?

山本  守備のポジショニングやバックアップの動き、走塁など、「へェ~」と思いながら話していますから。それが将来ユニフォームを着たなかで役に立てばいいなと思います。現役時代は自分が投げることがすべてだったので、今は選手のことをみなさんに分かりやすく伝えると思いながら、選手の動きを見ていますから、理解と浸透が劇的です(笑)。

小松  それもノートに記録したり?

山本  そうですね、何か気づいたら全てメモすることにしています。

 

同じ方向を向いている
チームは強い

小松  チームプレーの究極のスポーツが野球だと思いますが、団体競技でも個人が能力を発揮しなければ勝てませんね。

山本  そうですね、個が動かなければ良いゲームは実現しません。でもその目的が問題です。目標はチームの優勝のみ、です。

小松  個でありながら、優勝という目標から視線をずらしてはならない。

山本  そうなんですよ。なので、チームバッティングができる選手がいるチームは強いですよね。荒木雅博、井端弘和みたいな。守備もそうですし。チームのためには、こっちがいいという動きができる選手がいるとチームは強いです。俺が俺がっていうのも大事なモチベーションですが、最終的に同じ方向を向いているかどうか、ですね。

小松  そのチームを統率する指揮官も様々ですね。星野監督のような方もいれば、現在ですと日本ハムファイターズの栗山監督のように褒めて伸ばす、というような監督もいますね。それでチームカラーも変わるでしょうか。

山本  もちろん、監督の個性がチームには直結しますが、僕はむしろスタッフだと思います。いろんな監督がいますが、一番大切なことは、素晴らしい仕事をするスタッフが周りにいないとダメですね。

小松  いいスタッフに、支えられてこそ監督の手腕が生きる。

山本  そういう人を見極め、集められるか否か。それがリーダーの大事な資質かも知れません。どんな人を起用し、使いこなすか、ですよね。監督一人じゃチームには目が届かないですから。

小松  今ドラゴンズはどうですか?

山本  森繁和さんは、それができる方です。ただ、戦力がもう少し厚ければな、という感じですかね。ソフトバンクのように、3軍制のところは強いですよね。やはり、試合をやらないと伸びないですから。どうしても2軍は人数が多いので出場機会が少なくなります。試合数が増えれば、伸びる可能性も増えるということです。ソフトバンクはやはりドラフト下位や育成枠から活躍している人は多いですね。プロに入ってしまえば、ヨーイドンなんで。ドラフト1位とか2位くらいは、少し最初は違いますが、あとは3位、4位、5位だろうが育成だろうが同じです。いかに、試合の数を増やしてチャンスをつくってやるかですよね。

小松  山本さんが監督になったら、チャンスが得られる組織を作りたいですか?

山本  もちろんです。とにかく選手のチャンスは広げたいですね。星野さんがよく言っていました。「差別はしないけど区別はする」と。まさしくそうだと思います。組織である限り、伸ばすべきやつを伸ばさなければならい。でも、平等にチャンスは与えたいです。

小松  これまで出会った監督の影響は受けますね。

山本  確かにそうですね、影響は大きいと思います。一度、野村克也さんの下で野球やってみたかったですね。どんなミーティングをするのか、どんな言葉でアドバイスをするのか、見てみたかったですね。

小松  私、田中将大選手を楽天イーグルス時代に取材した際、野村さんの選手への接し方を伺いました。田中将大ブレイクの号砲となったあの「マー君神の子、不思議な子」と言う言葉も、本人の前では絶対に言わないそうです。メディアに放って、本人の耳に入る。田中投手は「あんなに怒られてばかりだけど、監督は俺のことをそんなふうに言っているのか」と、ハートに火をつける。老獪ですよね。

山本  わぁ、面白いですね。本当に一回、野村監督の下でやってみたかったです。

小松  私は、山本さんのユニフォーム姿を早く見たいです。

山本  ありがとうございます(笑)。そうですね、自分がピッチングコーチをしているイメージはあります。でも、まだ指導したことはないんでね。現役選手って、コーチからよりも先輩からのアドバイスの方を重んじるんですよ。そういう意味では、簡単にコーチになれるわけではありません。まあその辺り、自分を高めていかないと。昔は、コーチも様々なタイプがいました。根拠もなく「こっちの方がいいんじゃないかな?」くらいの感じで話す人もいましたね(笑)。今は、すべてのコーチが勉強していますし、ノウハウも蓄積されていますからね。確実にレベルはあがっています。

 

マイルールを貫き
あとは神頼み

小松  解説に講演会に取材、と、本当に忙しいと思うんですが、大好きなラジコンをしたりスーパーカーに乗ったりする時間はあるんですか?

山本  残念ながらあんまりないんです。ラジコンの時間は、なんとかして少し作りたいですね(笑)。

小松  あのラジコンのレースはすごいですよね。操縦はもちろん高度なテクニックが必要でしょうが、セッティングがまた凄い。F1くらいのセッティングが必要なんですよね。

山本  そうなんですよ。本当にF1のメカニックと同じです。丸一日ないとできないので、なかなかマイマシンを動かせません。でも、そんなことを考える間もなく、仕事をもらえているのでね、野球人としては感謝しなければ(笑)。

小松  そうですよね。またユニフォームを着るための道を進んでいるんですから。

山本  僕は暇になると不安なんで、動いている方がいいんですよ。まあ、でも趣味のおかげでいろんな番組にも呼んでもらえますしね。その辺は得していると思いますよ。

小松  ラジコンも1995年に膝の怪我をしたことがきっかけでしたね。

山本  ええ。ラジコンを始めたきっかけは、膝を痛めてリハビリを行っていた際、リハビリを終えて暇つぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、まず買ってみたことです。怪我をして落ち込んでいる時だったので、他の世界でやっていることが新鮮で、どんどん頭のなかに入ってきましたね。

小松  ラジコンは山本さんに合っていたんですね。

山本  一気にのめり込みました。凝り性なところが(笑)。ラジコンレースと先発マウンドに上がる前の緊張感は結構同じでしたし、ピッチャーをやっているから緊張にも強い。ラジコンのレースでもあがることは一度もなかったです。だから成績も良くて中京地区予選を1位通過して、全日本の大会で4位に入賞しました。

小松  ある時からシーズン中はラジコンをやらないと決めましたよね。それは凝り性だから(笑)。

山本  そうなんですよ。40歳超えてからはやらないって決めましたからね。野球に集中しようと思って。もう、13年くらいブランクがあります。

小松  山本さんは、マイルールをたくさんお持ちですよね。

山本  決め事をつくるのが好きなんですよね。結局、弱いから神頼みなんです。決め事をしては「これをしますから、助けてください」「これを我慢しますから、成功させてください」と、神様に頼んでいます。おそらくもっとずば抜けた力があればそんなこと思わないんですが、大して力がないから、神頼み。なので、神頼みをするにはちゃんとルールを守らないといけない。相手が神様なんで、隠れてコソコソはできませんから。僕はそうやってきて良かったなと本当に思いますね。それができたから、50歳まで続けられたのかと思います。

小松  現役時代、一番印象的な場面は?

山本  たくさんあるんですが、強いてあげれば、2010年9月4日のナゴヤドームで、巨人を完封したことですね。

小松  45歳0か月での達成は、プロ野球最年長完封記録ですね。

山本  それは誇りに思っています。

小松  これから野球界に戻って、ピッチングコーチでも、監督でも長く務めて、最年長記録を作ってください。

山本  ありがとうございます(笑)。いつ戻れるか分からないですが、野球から離れた人生は考えられません。星野さんのようにはなれませんが、50歳まで投げた山本昌だからできる指導を目指していきたいです。

ノンフィクション作家。神奈川県横浜市生まれ。専門学校で広告を学び、1982年毎日広告社へ入社。その後放送局勤務など経て、1989年より執筆活動を開始し、スポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多ジャンルで活躍。堅実な取材による情熱的な文章にファンも多い。代表作に『中田英寿 鼓動』『勘三郎、荒ぶる』『熱狂宣言』(すべて幻冬舎)『それってキセキ』(KADOKAWA)など。知的障がい者を雇用する町工場に密着した最新刊『虹色のチョーク』(幻冬舎)が絶賛発売中。

SUPER CEO Back Number img/backnumber/Vol_56_1649338847.jpg

vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
コンテンツ広告のご案内
BtoBビジネスサポート
経営サポート
SUPER SELECTION Passion Leaders