Passion Leaders活動レポート
株式会社幻冬舎 代表取締役社長 見城 徹/株式会社ネクシィーズグループ 代表取締役社長 兼 グループ代表 近藤 太香巳
文/宮本育 写真/阿部拓歩 | 2019.11.26
株式会社幻冬舎 代表取締役社長 見城 徹/株式会社ネクシィーズグループ 代表取締役社長 兼 グループ代表 近藤 太香巳
▼株式会社幻冬舎 代表取締役社長 見城 徹
1950年12月29日生まれ。1975年に角川書店に入社。「野性時代」副編集長を経て、「月刊カドカワ」編集長に就任し、部数を30倍に伸ばす。400万部を超えた森村誠一の『人間の証明』や、5本の直木賞作品をはじめ、数々のヒット作を手がける。1993年に角川書店を退社後、幻冬舎を設立。『大河の一滴』(五木寛之)、『弟』(石原慎太郎)、『ふたり』(唐沢寿明)、『ダディ』(郷ひろみ)、『永遠の仔』(天童荒太)、『13歳のハローワーク』(村上龍)、『陰日向に咲く』(劇団ひとり)、『心を整える。』(長谷部誠)、『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子)など、26年間で25冊ものミリオンセラーを世に送り出した。著書に『編集者という病』『異端者の快楽』『たった一人の熱狂』『読書という荒野』のほか、サイバーエージェント・藤田晋との共著『憂鬱でなければ、仕事じゃない』、林真理子との共著『過剰な二人』などがある。株式会社ブランジスタ取締役、エイベックス株式会社取締役(非常勤)、株式会社テレビ朝日の放送番組審議会委員長も務める。
▼株式会社ネクシィーズグループ 代表取締役社長 兼 グループ代表 近藤 太香巳
1967年11月1日生まれ。19歳の時、50万円を元手に会社を創業。34歳でナスダック・ジャパン(現ジャスダック)へ株式上場し、37歳で2004年当時最年少創業社長として東証一部に上場。時代が必要とするサービスをいち早く手がけ、携帯電話、インターネットを日本中に普及。現在は、エネルギー環境事業、電子メディア事業、経営者団体「パッションリーダーズ」のいずれも日本一の規模にまで拡大。世界的経済紙 「Forbes(フォーブス)」によるForbes Asia's 200 Best Under A Billion 2018に選定。常に新しい事業領域にチャンレンジを続け、ビジネスパーソンから若者まで情熱あるリーダーとして圧倒的な支持を得ている。JAPAN VENTURE AWARD 2006 最高位 経済産業大臣賞。『シーバスリーガル ゴールドシグネチャー・アワード 2019 Presented by GOETHE』 ビジネスイノベーション部門受賞。
大勢の会員でひしめき合う会場。そこに聞き覚えのあるベース音が流れた。1980年代に大ヒットした三好鉄生の名曲『涙をふいて』のイントロだ。そして突如はじまった、サングラスにタキシード姿の見城氏と近藤代表によるデュエット。一度は別れた男と女が、再び愛を誓いあう物語をしっとりと聴かせた後、間奏では見城氏によるタップダンスも披露された。
まさに、度肝を抜くオープニング。その場にいた人々が一気に見城氏のペースに飲まれていく。この、明快で、シンプルで、極端な発想と行動力こそが、幻冬舎社長として26年間で25冊ものミリオンセラーを世に送り出した見城氏の真骨頂である。
近藤 パッションリーダーズを設立して8年。当初から特別顧問を務めていただいているケン兄が、今日やっと来てくれました。
見城 歌わせてくれるっていうから、来たよ(笑)。
会場 (笑)
近藤 本当、皆さん、お待たせしました!
間奏中にタップダンスを披露。
見城 俺が近藤に最初に会ったのは、今から15年ほど前。近藤が立ち上げたネクシィーズが東証一部上場を果たしたころだったね。
近藤 そのときのケン兄は、ちょうど今の僕と同じくらいの歳だったかな。
見城 きっかけは、某大手芸能プロダクションの社長に、「ネクシィーズの近藤さんに出会った。今後も付き合って大丈夫な人物かどうか確認してくれ」と言われたこと。それで、代官山小川軒で一緒に飯でも食わないかってその社長が呼び出して、同行した僕がそこでいきなり「君のビジネスモデルをプレゼンテーションして」と言ったんだ。
近藤 何じゃ、このおっさん!って思いましたよ(笑)。昼ごはんを食べに行っただけなのに、「ビジネスモデルの説明をしたまえ」って(笑)。
見城 で、近藤は何やら話してくれたのだけど、俺、全然わからなくて。それは近藤のプレゼンテーション能力じゃなくて、単に俺の得意分野じゃないからわからなかっただけなんだけどね。とはいえ、あまりにプレゼンテーションがつまらないので、つい「君、カールスモーキー石井を崩したような顔をして、つまらないプレゼンテーションするなよ」って言っちゃった。
近藤 何じゃ、この甘栗太郎がっ!って思いましたね(笑)。
見城 それが近藤との最初の出会い。
近藤 そうですよ。最悪でした。
見城 で、後日、誰かが「近藤さんはなかなかステキな人ですよ」と言ってランチをセッティングしてくれた。Q.E.D.CLUBで一緒に蕎麦を食べたよね。それから仲良くなった。
近藤 「いいやつだな、お前」となって、僕も「いい人ですね」と。
会場 (笑)
見城 俺はだいたい、誰でも初対面では「何だ、お前」ってなるから。
近藤 絶対なりますよね。だから今日は誰にも質問はさせません(笑)!
見城 郷ひろみとは、『ダディ』を出版する10年くらい前から付き合いがあった。ひろみがこれまでと路線を変えてアルバムを出したいというとき、俺に白羽の矢を立ててくれて、いろいろ相談されたのがきっかけ。そんなことがあって、信頼関係ができたんだ。
その間、ひろみは英会話やゴルフの本を出したいと言ってきた。だけど、俺としては、そんなものでお茶を濁したくなかったわけ。だって、売れなかったら、つまらないでしょ。
それに、本を出した後の付き合いが気まずい。こちらは、売れなかったな……という思いを抱えるし、相手も体裁の悪さを感じながら付き合わないといけないから。だから、ひろみからの出版のアイデアは全部無視していた。最初に仕事をするなら圧倒的な結果を出さなければならないからね。
それがある日、ひろみと俺を含めた4人でゴルフに行ったときのこと。ひろみと俺がナイスショットで、他の2人がそれぞれ右と左にボールが飛んでいった。2人はそれぞれ自分のボールを追って左右に分かれたから、ひろみと俺が一緒にフェアウェイを歩いていた。すると、ひろみが切り出したんだよ。「実は離婚しないといけないかもしれない。色々悩んでいて、すごく苦しい」って。
そこで、ラウンドを回り終えた後、入っていた約束はキャンセルして、ひろみと飯を食いに行った。そこで「もしかしたら、自分の思いをちゃんと書いたほうがいいと思う。そのことによって自分の気持ちが整理され、苦しさも少し緩和するかもしれない。書くというのは、基本、自己救済だから」と話したんだ。
見城 そこからはすごいよ。ひろみは、楽屋、ホテルのロビー、さらには移動中の新幹線や飛行機の中でも、ずっと自分の思いを書き続けた。その集中力は相当なものだったと思う。このころのひろみ夫妻は、国民的おしどり夫婦だったからね。テレビで結婚披露宴が生放送され、視聴率が芸能人の結婚披露宴中継の中で最高を記録して、いまだに破られていない。それくらい仲がいいと思われていた2人が離婚するわけだから。
近藤 誰にも内緒だったのですか? プロダクションの社長にも?
見城 そう。ひろみが所属していたプロダクションの社長にも言わなかった。「エッセイを出したいので書いてもらっています」としか伝えていなかったから、誰も離婚するとは知らなかったんだよ。
それで、俺は奥さんのほうとも仲が良かったから、本のことを説明し、協力してもらった。憎み合っての離婚ではなかったからね。印刷会社も、担当営業と、文字組みをするオペレーター以外は誰にも知らせなくて、本当に秘密裏に進めた。
ようやく見本が完成して、次なる難関は、タイトルも著者名も言わず、初版50万部を取次会社に搬入することだった。どんな本かわからないものを幻冬舎が50万部出すといって、騒然となったね。社会現象にまでなった。
だけど、これはこちらの思うツボだった。速報性のメディアであるテレビ・新聞・ラジオではなく、単行本という、作るのに最低3カ月かかるローテクな媒体が、ひろみの離婚をスクープするわけだから。それだけでも衝撃度は高いのに、さらに初版50万部というのも前代未聞。しかも、誰も離婚するとは考えてもみない国民的おしどり夫婦がどのようにして離婚に至ったのか全部書いてある。
発売後、あっという間に100万部売れた。初版10万部でやっていたら50万部で終わっていたよ。もし、初版50万部で30万部返本されたら幻冬舎は倒産していたけど、そこはやっぱり鮮やかに結果を出さなきゃダメだからさ。ここは勝負というときは極端にやらないとダメなんだよ。
だから、今日の登場もそう。ずっと経営者交流会に出るのが嫌だなと思っていたし、デュエットとタップダンスがどう受け止められるかわからないけど、出るからには極端にやらないと、と思った。極端というのは、明快だし、シンプル。これこそが、売れる条件。『ダディ』はそういうふうにして、100万部売れたんだよ。
近藤 すごいですよね。皆、ここ、よく聞いておいてくださいね。
[第2回]「他人ができないことしかやらない」と決めて “圧倒的努力”で作家を口説き付き合ってきた
vol.56
DXに本気 カギは共創と人材育成
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
代表取締役社長
井上裕美